2月9日:一人前の経営者であるために『易経』に挑戦する意味

私はこの1年間の目標を次のように定めています。

「携帯アフィリエイトで月収150万円を達成し、その過程で、経営者として、人間として、深く成長すること」

ただ数字だけを伸ばしても、その数字に足る人間性を養わなければ、お金に振り回されて、結局は自分自身を見失い不幸になってしまいます。

宝くじで一攫当選を果たした人が、急に転がり込んだ大金に動転し、価値感覚や理性が麻痺して、破滅への道をたどってしまうように。

あるいは、数字だけを追い求めるがあまり、自分の人生や家族、趣味といった喜びをないがしろにし、仕事にふりまわされて老いていく経済奴隷人のように。

やはり、お金をたくさん稼ぐひとは、そのお金をコントロールするだけの修養、人間的な度量の広さ、深さというものが必要不可欠に感じます。

私も日々、売り上げに心を揺さぶられていますが、

報酬が上がる日も、上がらない日も、天にも舞い上がる気分の日も、地獄の窯に煮られるような日も、淡々と平常心でやるべき仕事に励む胆力を持ちたいと思っています。

「人間は何かの基準、拠りどころがなければならない。よいならよいで、悪いなら悪いで、道を聞かなければならないのである。その点、『易』を基準にすると頼もしい力になる。『易』は無限だ。何か困難な問題に取り組もうとするとき、『易』を読むと、おのずと答えが出てくる」

「絶望することも許さず、有頂天になるをも許さず、変化してやまぬ、変わっていくこと、治めていくことの原理を説いたのが『易』である。『易』を読めば抜本塞源(弊害の根源を除き去る)、功利の毒を正すことができるようになる」

先日読んだ寺師睦宗氏の『安岡正篤「やりたいことを必ずやり遂げる生き方」』で、人間的な素養を深めるためには、中国古典を読むといいことを教わりました。

以前からたびたび、経営者や歴史上の偉人たちは、『論語』や『荘子』といった、四書五経を常に座右の書として物事を判断する際の指針をした、という例を目にしていましたが、

自分でビジネスを興してから、改めて原理原則を自分の腹のうちに収めておきたいという意欲が沸いています。

学生時代は自分が何をやりたいかが明確ではなかったために、「知的遊戯としての学問」しか学んできませんでしたが、

自分のやるべきことが明確になり、日々困難に立ち向かう中で、「自分自身を見失わないための学問」の必要性を、強く、強く感じています。

ということで、昨日から『易経』を手に入れて読み始めました。

まだ人生経験が乏しいために理解できないことも多いですが、「古典に挑戦する」ことそのものの魅力に、今は虜になっています。

きっと、自分の言葉で解釈できるようになるかは、まだまだかかると思いますが、本を読みながら考えたこと、感じたことを、これからはちょぼちょぼ綴っていきたいと思います。

阪口ユウキ

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