大学時代、花屋に足を向けては、何も買えずに帰ってくることが多くあった。
きっかけは、石川啄木。
彼が、貧乏ながら花だけはいえに絶やすことがなかった逸話を読み、当時1日250円で暮らしていた自分も共感したからだ。
しかし花屋というのは、慣れない人間にとっては眩しく、居心地が悪い場所だ。普段は目にしない原色の数々。
鮮やかに咲き誇る花の群れは、スクラムを組んで、着の身着のまま生きている自分を阻んでいるように思えてならなかった。
結局、在学中に花を買うことができたのは、1回だけ。
家に帰って飾ろうとしたとき、そうだ、俺の家には花瓶の類がないのだったと気がついたときの申し訳無さは、今でもよく覚えている。
俺が買わなければ、こいつはもっと、良い生を全うすることができただろうに。
無造作にコップに生け、管理の仕方もわからないまま、よく陽の当たる場所に置いて数日で枯らしてしまったのだった。
花を買うにも、それなりの力がいる。僕が花を日常的に買えるようになったのは、ここ最近のことだ。
わからないながらも花を買い、生け、花をプレゼントし、アレジメントを教わり、自宅を訪問した友人が花を褒めてくれるようになってようやく、人並みに花が買える自信がついた。
在学中、花を買ったときに書いたブログ記事を読み返してみると、日付は2008年8月とあった。日常の中に花が入った、と思えるまでに、実に僕は13年かかったのだった。
生計を立てる力があっても、人生を彩ることはできない。
人生を彩るには、生計を立てるのと同様に、力と意識を注ぎ、努力しなければならないのだ。
そんなことを、花屋に行く度いつも思う。