この理不尽な状況すべてが、自分の決断が招いた結果であることを考えると、何に怒りをぶつけることもできず、
今もし誰かが絡んでくれれば、殴り返す口実も、エネルギーを発散させる口実もできるのにと、くさくさとした絶望的な気分を抱え街を歩き続け、しかし誰からも相手にされず、靴の踵を擦り減らしている、毎日、毎日。
「感情を持つことは、常に、絶対的に、正しい」
とあるジャズ評論家は言った。
しかし、感情を発散させる術を持たぬ若者にとってそれはあまりにも重荷であり、感情を抱いたままでは、一日はあまりに長すぎる。
何かを為そうとする人間にとって、一日はあまりに儚いものだが、
何も為し得る術を持たない人間にとって、一日はあまりに長く、尊すぎる。直視することに耐えられぬほどに。
僕は、究極的には人間は、他にやることがないから”仕事”をするのではないか、と思うようになった。
仕事がない生活の重力は耐えがたく、その重みに押しつぶされないように、毎日決まった時間に起床し、決められたノルマをこなし、人生の大半の時間を社会のために捧げて過ごす。仕事とは、人間を自律的な状態に保つために必要不可欠な、生理的に行為とでも言うべきもので、それがなくなってしまうと、面白いほど簡単に、人間は瓦解していく。
仕事がないことで瓦解した人間の実例に、この地域は事欠くことがない。
東北震災被害者が、十分すぎるほどの生活保護を受けて、仕事をする必要がなくなり、その補償金のすべてをパチンコに投じてしまうのも同じ理由だろう。仕事がない一日の重みをどこかに発散しなければ生に直面することができないのだ。だから人は仕事をする。その単純な生理現象に、社会人や企業家は尤もらしい理由付けをしているに過ぎない。
僕は起業してからこの八ヵ月間、持ちうる感情のすべてを仕事に投入してきた。
今、瞳を奪われ、仕事を奪われてしまったことで、その感情をどこにぶつければいいのかわからないでいる。
原稿用紙に向かって吐露する言葉は、あまりにも自己完結しすぎていた。中途半端なマスターベーションは、性的欲求をさらに昂めるばかりだ。欲しいのは生身の肉体であり、生身の仕事だ。生身の仕事と差し違えるような生活を取り戻したい。
夕方五時に仮眠を取ると、眼が覚めた時には0時近くになっていた。
食べ散らかしたスナック菓子の袋をビニールにまとめ、やることもないので、晩飯を買いに外へ出た。
スーパーで肉じゃがと白米と発泡酒を買う。街灯と車のヘッドライトの灯りで視界は薄ぼんやりと混濁している。
タクシーの運転手たボンネットの上に腰を下して談笑している。
路地裏では麻薬の密売人が私を客だと思って近づいてくる。
職安前の段ボールハウス群は息絶えたように静まり返っている。
あいりんの、いつもの日常風景がそこにあった。
阪口ユウキ