11月、東京某所で開催される裏千家の茶会に招かれることになり、今日は、茶会での所作を学んできました。
茶室で、本格的な所作を学ぶのはこれが初めてになります。
正しい立ち方、畳の上での歩き方、礼の仕方、お茶をいただくときの動作の流れまで。正しい所作で畳の上を歩こうとすると、部屋の端から端まで移動するということにも、ままならないのだと知りました。
茶道の一端を学ぶ中で、特に印象に残ったことが2つあるのでシェアします。
1つ目は、茶室という空間の中には、日本の美と芸術が凝縮されて存在されているということ。
書(掛け軸)、焼き物、塗り物、金物(湯を沸かす釜)、花、竹。日本における伝統工芸が揃っており、ひとつひとつの道具に由来や、それを選んだ亭主の意図があります。
漆の質感、椀の文様、竹細工の繊細な曲線。
でも、それに対する知識がなければ、その工芸品の価値を正しく受け取ることができません。今日の僕は、できませんでした。輪島塗、といわれても、輪島塗、という言葉のイメージしか浮かびません。
もし工芸品に対しての知識・教養がある状態で茶室に入ったら、きっとここは異空間になるに違いありません。その、空間の広がりを味わうことができる自分でありたいと、思いました。
2つ目は、流麗な所作の美しさについて。
お茶の点て方、そこに至るまでの流れ、ひとつひとつの動作の細部に渡って、それは見惚れるような美しさがありました。
その、所作についての説明を受けているときに、こんな話を聞きました。
「茶道の所作は、一切の無駄がないんです」
「狭い茶室の中で、無駄な所作があると、特に男性は目立つんですね」
「千利休の時代は、何か粗相があると切腹を命ぜられる時代ですから、いわば、『無駄があれば、斬られる』中で確立された所作なんです」
「無駄があれば、斬られる」という基準で行われる所作。
その基準値の高さに、痺れました。
茶室は、一畳二畳の中で茶を点てて振る舞う中で確立された所作であるため、無駄な動作をする余地というものがないのだそうです。
無駄があれば斬られる、一切の無駄が削ぎ落とされた所作はただ美しく、その基準値の高さを少しでも人生に取り入れたいと、今は思っています。
自分はどの基準値で生きるか、ということを、最近よく考えています。
WEBサイトを作るという自分の本業にしても、育児をするということにしても、運転をするということでも、何でもいいのですが、それを「どの基準値で行うか」ということが重要なのだと感じる機会が多いです。
先日、仲間の応援で鈴鹿のF1観戦に行ったのですが、ドライバーは、100項目以上の要素を検討しながら、ベストなコース設定とドライビングをするとのことです。
100項目以上に気を配りながら運転をする、その基準値の高さを持って毎日を生きるということは、常人とは違う生き方に自然となるに違いありません。
茶室を後にして、電車の中。今はオーケストラの合同練習に向かっています。
今日は、指揮者が日本に帰国するタイミングで開催される、24時間合宿が開催されます。24時間、音楽を寝ずにやり続ける。これもまた、自分の中の基準値が更新される時間になるんだろうなと感じています。
POWERTRAVELER 阪口ユウキ