最後の1日が終わった。
特に何も特筆すべき事柄のないB勤務。重ったるい身体を引き摺りながら、いつのまにか掃除が終了し、レストランの照明が落ちた。
照明が落ちて真っ暗になったレストランを眺めながら、もう二度と、この照明の下で働くことはないのだと思うと、少しだけ感傷めいた気分にもなったものの、すぐにその気持ちは明日から始まる新しい仕事への期待感と昂揚感に掻き消された。
勤務後、温泉に浸かって真暗闇の玄界灘を眺めていると、長谷川君がやってきた。長谷川君も、今日が最後の勤務だと言っていた。心なしか表情が晴れ晴れとしている。
「おつかれー」
「おつかれさまです」
「なんか嬉しそうにしとうね」
「お互い様ですよ」
「ハハハ」
旅館での仕事に心残りはないが、長谷川君と離れるのは少し寂しかった。
考えてみれば長谷川くんは、鬱病以来はじめてできた友達だった。年齢も肩書きも社会的地位もなにもかもをそっちのけにして、誰かと気楽に話せることが、こんなにも楽しい物なのだということを思い出させてくれた。
「阪ちゃんは、これからどうすると?」
「大阪に行くよ」
「言っとったねえ。WEBの仕事やろ?」
「うん。頑張ってみる。なんとか稼いで、それから旅人に戻るよ」
「そっか。がんばりー」
「長谷川君は?」
「ネパールあたりに行って、山登りしてくるよ」
「エベレスト?」
「それ、気軽に行けんやろ。あそこはトレッキングとか、登れる山が多いっちゃ。もうチケットも取った」
「いつ出発?」
「2週間後」
「おお、あっというまだね。帰ってきたらまた現場?」
「そうっちゃね。またしばらく旅館で働いて、お金貯めて海外に出て山に登って…でもそれが最後かなあ」
「どうして?」
「20代のうちはやっぱり好き勝手生きたいと思っとうけど、そんな風にできるのも26歳までと思うんよ。30からまともな仕事就こうと思っても難しいけんね。26くらいが限界やね」
「そっか」
長谷川君の言葉は、他人事に聞こえなかった。
「阪ちゃん、明日は博多に泊まるんやろ。場所決まってる?」
「まだ決めてないよ」
「じゃあうちに来るといいよ。泊まってき」
「いいの?」
「別にええよ。カレー食ってき、カレー。うちの母ちゃんのカレー旨いから」
長谷川くんの提案は、染み入るように嬉しかった。
出発
朝7時。
1枚しか使わなかったシーツをたたみ、洗濯の必要なしとの言葉通り着古した制服をそのままたたみ、部屋隅に積み上がったコーラ缶を袋詰めにし燃えないゴミに出す。
冷蔵庫の中でカラカラに乾涸びたクロワッサンを捨て、洗濯物を乾燥機にかけてたたみ、あとには読み切れなかった本だけが残った。
未練はない。
一歩外に出た瞬間に部屋の面影は薄れて行くに違いない。
黴臭いにおいが染み付いた壁、毎日掃除をしても埃の舞いあがるフローリング、悪戯に垂れ流した蝋燭の跡、繋げなかったままの地デジチューナー。
ダンボールに詰め込まれた数ヶ月前の少年誌、真中の巻がごっそりと抜けた手垢に汚れた野球漫画、浴室の手すりに投げかけられたままの水着、玄関で埃を冠るスキム・ボードの数々。
業務開始時間にバタバタと慌ただしく廊下を走る二階女子寮の足音、寝静まった深夜に突然響く車のエンジン音と笑い声、ラフな恰好に着替えた職場仲間、次第に勢力の衰えていく蝉の合唱、夜中に遭遇するイノシシの親子――。
この1ヶ月半は、僕の人生にどんな影響を与えたのだろう。
ウルフルズが歌う、「僕の人生の今は何章目くらいだろう」というフレーズを思い浮かべた。
僕の人生の今は何章目くらいだろう
顔と頭を洗ってすぐ、シーツと制服を事務所に返しに行く。
事務所では。係長が一人事務仕事をしているのみ。容貌を直視したのはこれがはじめてであるが、こざっぱりとした素敵な顔立ちをしていた。福岡の人ではないのかもしれない。
挨拶はこざっぱりと済んだ。厨房を回り、休憩室を回り、その日いる全員に挨拶をしたことで、一応の礼儀を果たした気分になった。
9時45分のバスで志賀島を出る。
普段は送迎でレストランの人間が出てくるのだが、今日はその気配がなにもないため、自ら出向いてレストランに顔を出した。
レストランには康平さんと中村後藤コンビがいるのみ。「今日が最後なんで」と告げると「あれ、最後でしたっけ!?」と驚き、寂しそうな顔をしてくれる。その表情がなんだか嬉しかった。
皆に見送られて志賀島を離れる。
バスが出発し、旅館が遠くなる。
ガタゴトと見慣れた海沿いの道を走る。もう、旅館で働いていたことがはるか遠い夢のように思えた。