アイスコーヒーを、飲むとしますよね。カフェラテとかカプチーノじゃ駄目です。アイスコーヒーを選びましょう。
ガム・シロップとミルクを入れてよく書き混ぜて、よおおく混ぜて、適当に飲みながら、本を読んだりタバコ吸ったり書き物をしたり、ほうっておくと、段々に層ができますね。底から表面にかけて濃淡のグラデーションが現れる。そのグラスの中の様相をまじまじと眺めながら、「もし私がアイスコーヒーになるとしたら」と真剣に考えるわけです。
一番上の表層、喫茶店の天井から垂れるオレンジ電球の光をキラキラ反射する、透き通って透明な、濁りのない混じり気のない雑味なしの、純粋無垢、コーヒーを構成する粒子という粒子を削ぎ落とした、この美しく透明な層になるのか。あるいは一番の下層、表層とは対をなす、光の届かない何をも反射し映さない、時間を経て積み重なり凝縮された、エッセンス、濁り混じり混沌と溶け合い、だからこそ力強い色彩を秘める、堂々と佇む層か。
アイスコーヒーになるなら、このどちらかになりたい。これ以外の選択肢はないと思う。中途半端は駄目だ。純粋なコーヒーであり続けることを選択し、踏み止まって我を通すか、コーヒーであることを離脱し、分離して、全く別の物質としてまっさらに生きていくか。そのどちらかしかないと思う。
彼女は小学校6年生の夏。その哲学を発見した。
彼女は透明になることを選んだ。そして残りの人生を全て、上へ上へ、ひたすらに昇華し続けて行く道を選んだ。具体的にそれが何を意味するのか、幼い彼女にはわからなかった。大きくなったって、きっとわからないだろう。彼女は常に空を見上げた。地上に縛り付けられている自分を呪った。屋上を好み、暇があれば上って、そこで飽きもせずフェンスの向こうの空を眺めた。それを乗り越えて飛び出そうなどという気は起こさなかった。飛翔のその瞬間、しばし重力に打ち勝ったとしても、それはすぐに彼女を捕らえなすすべもなく落下することは容易に想像できた。彼女が求めていたのはその一瞬の飛翔ではない。
常に常に、絶え間なく上昇し続けて、全てを溶かし、全てを置き去りにし、全てをまっさらにし、透明になって消えていく、それは壮大なものであった。そうして1年が過ぎ、5年が過ぎ、10年が過ぎ、20年が過ぎ、30年が過ぎ去った頃、彼女は宇宙飛行士として地上を飛び立ち、果てしない飛翔を現実のものとしたのだった。
地球を飛び出す。重力が彼女を解放する。無重力の空間を、彼女は心地よいと思った。今まで自分を縛り付けられていたものの、ひとつが、確かにその瞬間外れた音を、彼女は聞いた。
彼女のチームが与えられた仕事は、新しい宇宙ステーション開発の、その基盤づくりであった。すでにその頃、各国政府、技術者たちは、凌ぎを削って宇宙開発を競っていた。宇宙飛行士のニーズは飛躍的に高まり、こうして彼女にもチャンスが巡ってきたのである。
そうして2週間が経った。彼女は宇宙空間で作業を続けながら、ふうっと、自分の宇宙服から宇宙船へと伸びる、一本の細いワイヤーを視野に捕らえた。そうして、深い、深い、絶望が彼女を襲う。
ああ、私は、ここまで来たのに。こんなに遠くまで来たのに。こうして繫がれているじゃないか…
それまで一心に目指してきた。上へ上への飛翔を。果てしない上昇を。そうしてここまできた。こんなに遠くまで来た。それなのに、彼女はどうしてもここが目指してきた場所とは思えなかった。彼女は上を仰ぐ。全くの、無、がそこに広がっている。あの向こうへ。もっともっともっと向こうへ。私は、結局何からも、解放されてなかったのではないか…。
作業用のレーザーを、静かにワイヤーへと当てる。それはあっけなく分断される。そうして力強く、地面を蹴り放った。ふわりと無重力は彼女を受け入れて、音もなく、意志もなく、体は浮かび流れ始めた。同僚の一人が、彼女を発見した時にはすでに遅かった。彼女は小さく、ただ小さく、宇宙の暗闇の彼方へと消えていった。
これで全ての繫がりはなくなった。その筈だった。それでも、まだ何かが彼女を縛り付けているような気がした。地上から遠く離れた。帰る場所も、家族も、友達も、重力をも置き去りにしてきた。今は何からも分離されているはずだった。そして間違いなく、地球上に住む何十億という途方もない人間の、彼女はもっとも高い場所にいるはずであった。見渡す限りの無。ここには何もない。何も…。
否。
それでも私は、私という存在から、離れることができないのだ。
それを知るにはもう遅すぎた。私は、私という存在ごと、置いてきぼりにしたかったのだ。私が真に望んでいたことはそれだったのだ。上に、上に、上に、ただそれだけ追求してきた。つもりだったのに!私は!私という存在から、とうとう離れることができなかったのだ。思念、感情、感覚、言語、身体、全てを透明にしたかったのに、私は。何もかもを削ぎ落として、アイスコーヒーのあの、キラキラとして混じり気のない、ただただ美しい、あの場所を目指そうと思ったのに。私は、全てを置き去りにしてきたはずだったのに!私なんて、いらないのに!私なんていらなかったのに!いらない!私は!私のいない私に!なりたかったのに!なりたかったのに…
彼女は目を閉じる。酸素ボンベが、音もなくその供給を止める。
絶望的な苦しみを、静かに彼女は受け入れる。
彼女の思念が、力なく浮遊する彼女の身体を、見下ろしている。長年連れ添ってきた、見慣れた容貌が、何故だか白々しく感じられる。彼女は彼女に一瞥する。そうして、今度こそ何ものにも邪魔されぬ、いつ果てるともない、飛翔するための飛翔を開始する。
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