6時半起床。道の駅・奥入瀬ろまんパーク。
左のサイドミラーの中心に、東の空から生まれたばかりの太陽が、霧の向こう側で煌煌と輝いている。その反射する光がまぶたを突き刺し、瞳を焼かれるようにして目覚めた。
アマチュア無線のおじさんの車に遊びにいくが、忙しそうだったので遠慮した。一目見て、この通信手段は携帯電話とはまったく違う面白さがあるのだろうと察した。
太田さんから、実家で経営するラーメン屋の地図が送られてくるが、青森市内であった。もう一日早ければ喜んで向かったのに。もはや自分の興味は南に向いている。
下北半島を切り捨てて、十和田湖へ向かった。途中、奥入瀬渓流を経由する。
海もよかったが、渓流もまたいい。僕の身近にある川は穏やかな利根川だけであり、上流の、突き出した頑強な岩をなぎ倒すように、飛沫を上げながら駆け抜けて行く濁流を見るのは初めてだった。
シャッタースピードを限界まで落として写真を撮ると、水の流れがまるで上質な絹のように見える、あのよく雑誌でみかける写真のように撮れて満足した。
紅葉の混じった緑の谷間を徐行運転で抜けて行く。
木々の隙間からこぼれ落ちる日差しは、時折目の前が真っ白になるほど強烈だった。光は、ハンドルを握る自分の右腕と肩を執拗に焼いた。この数日で、自分の左右の色はわずかに違うはずである。
昼過ぎ、十和田湖に到着する。
十和田湖の駐車場が、一般車両410円となって、路肩には執拗に駐車禁止を張り巡らしているのがいやらしい。
十和田湖の遊歩道を、修学旅行の中学生たちが駆旅けていた。丸い石を選んでは、勢い良く湖面へと投げ入れ石の跳ねる回数を競っていた。
銅とスズでできた乙女の像は、乙女というには、皮膚は錆びつきくすんで、時代を感じた。
横に添えられた高村光太郎の詩が素晴らしかった。
銅とスズとの合金が立ってゐる。
どんな造型が行はれようと
無機質の図形にはちがひない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにない。
すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
天然四元の平手打をまともにうける
銅とスズとの合金で出来た
女の裸像が二人
影と形のように立ってゐる
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪えて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ。
詩人は、感動を言葉にする。
自分は感動を、何で表すのだろうか。
幾万人もが刻んだ湖畔の足跡を私の足跡が上書きする。
紅葉の十和田湖はきっと素晴らしいだろう。同じものを見ても、季節や角度や天候によって、この町の景色は一変するだろう。
十和田湖は恐ろしいほど澄み切っている。
桟橋から身を乗り出すと、海底に敷き詰められたまるっこい石が容易に見渡せた。空を移すと天色に染まる。雲がかかれば乳白色に染まる。それが海のような広大さで穏やかに広がっている。
湖畔を取り囲む山々は霧を降ろしている。それが全体的にもやもや湖を包み込んで、桃源郷のような陶酔感を与える。
この畔に泊まろうと思った。
乙女の像から8キロ105号線を走ると滝ノ沢キャンプ場がある。ここに決めた。
十和田湖は恐ろしいほどの静けさに包まれ、その湖面は蒼いガラスのように澄み切っている。
青森と秋田両県にまたがる十和田湖は、周囲46キロをぐるりと周遊できる。
桟橋から身を乗り出すと、海底に敷き詰められたまるっこい石が容易に見渡せた。キャンプ場の管理人によると、9メートルの深度まで、見通せるそうだ。
湖畔を取り囲む山々は深々として、てっぺんから足下にかけてぼんやりと霧をおろしている。それが全体的にもやもやと湖を包み込んで、まるで桃源郷にいるような気持ちがした。
湖畔に面した滝ノ沢野営場を、この日の寝床にする。キャンプ場への到着が午後2時、湖畔で楽器の練習をしながら、時間が過ぎるのを待った。
夕日、ふっと顔を上げると、恐ろしいまでに透明な茜色が世界を包んでいた。
これまでの半年間、四畳半の部屋に引きこもって過ごしていた自分にとって、その風景はあまりにも美しすぎた。一体自分が引きこもっている間、どれだけ、自分の頭上をこうした美しい物が過ぎ去っていったのだろう。
過ぎ去ったものはもう、それは取り戻すことができない。そのことに対する一抹の切なさと、今、この景色を手にすることができた安堵感が、一陣の風となって胸を吹き抜けていった。
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