古本(650)、昼食(200)、パン(116)、駐車場(400)
結果的にしょんぼりしたものになったとしても、せめて人前に立っている時だけは、堂々と猛者のように振る舞うべきだ。
いつも結果は悲惨だ。後悔と反省に影を引かれながらとぼとぼと車へともどる私はまったく哀れである。
Yesterdayはたよりなく支離滅裂であり、don’t worry,be happyは将来に希望が持てず心配事のつきない若者のようだった。
少しくらい大きな音を出しても、興味のない人はすたすたと先に進み、10メートルもそんな音も光景も忘れてしまうのだ。
立ち止まったその一瞬に、心に響く演奏をしているかどうかだ。一瞬たりとも、僕らは気を抜けないのだ。
立ち止まる事を期待するのではなく、立ち止まらせる力量をつけるのだ。それが目下の仕事であることは疑いない。
文章も同様だ。書き手の血肉が生々しくこびりついた文章でなければ、誰が時間を割いて読むものか。
音楽も、文章も、人の時間を奪い取るのが仕事だ。彼らの日常の活動や思考の中に踏み込み、こちらの世界へむんずと引き連れてくるのが我々の役目だ。それは、すごいことなのだ。
生半可な気持ちで、中途半端な世界に、誰かを連れてこようとするな。
お前だけが住む世界はそれで許されるが、誰かと共有する世界の中では、礼節と規範は守られなくてはならない。
音楽というのは、音量の届く範囲の人であれば、たとえそれがこちらの目の届かぬ範囲にいたとしても、たしかに聞こえているのだ。
悲しかったことは、演奏を聴いてくれた方から、お菓子をくれたとき、それがカリントウであったことと、手掴かみでいただいたことにのふたつの嫌悪感が、感謝の気持ちよりも先に心の表層に浮かび上がってきたことだ。
なんという傲慢だろう。なんと贅沢に肥満した心だろう。なんと哀しい感情だろう。
そんな風にいただきものを思ってしまう自分が哀しくて仕方がなかった。もらうことが当たり前になっていた生活態度のなんと肥満しているのだろう。
いただいた猶予期間を最大限に活用する。そして、猶予を許していただいたことへの感謝を文章と音楽で、社会と国と人間へと還元していく。一生をかけて恩返しをしていく。