生活と花

扉をあけると、一輪の薔薇とともに、逆光を背負った彼女があった。玄関に招き入れると、小ぶりな薔薇の純白が、彼女の穏やかな表情とともにぼうっと浮かび上がった。

「これ、活けようと思うの」

彼女の声は明るく弾んでいた。その明るい調子は、倦怠に満ちた土曜日を鮮やかに染め上げる。

「あなたのだらしない生活を、正してもらおうと思って。気を抜くと、すぐ、あなたの生活は破綻しようとするのだから。これを」

私の生活の内部にそのようなものが持ち込まれたことは皆無であった。純白の花を、彼女に手渡されたとき、その儚いまでに手ごたえのない存在の重さを、どのように扱えば良いのか躊躇った。

私はそっとそれに触れた。花弁はやわらかく、織りたての絹のように皮膚になじんだ。棘は柔らかく私の甘皮を刺した。鼻を近づけると、艶めかしい匂いが鼻孔を通じて私の全身を打った。驚いて、私はバッと身を離した。

彼女は部屋の隅に鞄を置いた。その中から、布で大切に包まれた細長い物体を取り上げた。彼女はその布を丁寧に剥きあげると、そこには均整の取れた細長いガラスの花瓶があった。

「持ってきたのか」

「おうちに余っていたのを持ってきたの。かわいいでしょ。コップでもいいかなと思ったのだけど、細長い花瓶に一輪、飾りたいなと思ったものだから。洒落ていると思わない?」

「どうだろう。全体として、僕の部屋が洒落る、なんてことはまずないかなと思うけど」

「お洒落になるわ。きっと」

彼女は水道の蛇口をひねり、花瓶の中に水を浸した。玄関の上窓から差し込む西日が、強烈にその花瓶の透明さを差した。水滴が、橙色に照らし出されて淡く揺れた。彼女の微笑みとともに、その光はあった。

「部屋を片づけておいてねって、伝えたよね。電話で。もう少し、がんばってほしかったな」

もう少し、どころか、これっぱかしの力も、この土曜日には発揮していなかった。そのことを私は後悔した。穏やかな口調の向こう側にある、凛とした内面の佇まいは、ただそこに存在しているというだけで私の感情を突き刺した。

彼女は、しばらく部屋の前で思案したのち、壁一面に沿って置かれた本棚を選択した。本棚の背丈は、ロングスカートに丁寧に包まれた彼女の腰回りと、同じ高さにあった。正方形の本棚が、壁に沿って三つ並んでいた。その本棚の上に、あぶれた本屋CDが、所により彼女の胸のラインにまで達していた。

彼女は真ん中の本棚を選択した。

花瓶を一度、私に手渡して、彼女は本を掻き分け始めた。余分な本を床に置き、横に押しやり、叱りつけながら、慣れた手つきで雑然とした空間を切り取っていった。そうして空白を生みだすと、そこへ花瓶を置くように私に指示をした。

「花瓶だけ置いておいても仕方がないでしょう。活けて」

「僕が?」

「せっかくなんだから。良いじゃない。記念と思って、ね」

私は花瓶の中に薔薇を差し込んだ。これまで部屋に持ち込まれたどのような色彩よりも、その純白は艶めかしく鮮やかに存在を主張していた。そこだけ空間が切り取られて、何か高貴な印象すら私は覚えた。あまりにも雑然とした周辺と、この部屋の荒んだ空気が、それはあまりにも長くこの部屋に居座っていた筈であるのに、一瞬にして場違いなものであるように錯覚するほどであった。

「これで、この部屋にはあなただけが生息しているのではなくなったわ。花も、一緒に生息しているのよ。仲良くやるのよ。私がいなくっても、きちんと生活を成り立たせなければいけないのよ」

「花の扱い方なんて、僕にはわからないよ。いつ水を取り換えるのかも、いつまで置いておけばいいのかも、今だってもう落ち着かないんだ。生かしておく、自信がないよ」

「水を替えてあげたいな、と思ったら新しいお水をあげればいいのよ。花は、そうね、適当な時期に新しいのをまた持ってきてあげるわ」

彼女の表情は嬉しそうだった。

困った私は、ともかく、そのあたたかい存在を抱き寄せることにした。首筋に顔を埋めると、腐った細胞が彼女の鮮度に満たされていった。薔薇を嗅いだときと同じ、それを何十倍にも煮詰めたような艶めかしさを、私は存分に吸い込んだ。

————-

「生活を正す」という彼女の意図は、翌朝、彼女を送り出した後に気がついた。

彼女がいなくなったことによって、それまで保たれていた存在のバランスが崩れた。

私の空間は、すでに私だけのものではなく、本棚の上の薔薇にも、その権利は平等に与えられることとなった。仲良くやるのよ、と彼女がいった、その擬人化された表現は嘘ではないことを知った。そして、仲良くやるには、この生活空間はだらしがなさすぎた。彼女に感じる申し訳なさと、同様の羞恥が、じりじりと沸き上がった。

はじめ、私は無視をきめこみ、いつものように読書や映画に没頭しようと努めた。

しかし、6畳の生活空間において、色彩の鮮やかさはどうしても視界の隅にちらついた。慣れない空間が気になって、ただでさえ儚い私の集中はさらに希薄なものとなった。私は寝転びながら、その花の、佇まいを眺めて過ごした。花は、昨日と同じ姿勢で、緑の茎を天に向け凛とのばしていた。その先端に白色は、あくまでも明るく、鮮やかに色づいていた。意志があれば、これはきっと強いだろうと私は思った。その印象は、そのまま彼女の態度に通じているような気がした。

外に咲いていれば、新鮮な外界の空気と風にさらされ揺れながら、その短い一生を終えることもできたのだ。それが、埃の匂いが絶えず、風通しの悪い構造、さらに青空までが隣に立つ背の高いアパートに奪われているこの空間に運ばれてしまった。その運の悪さに私は同情した。私には、彼女が必要であるように、これにも、太陽と風が必要であるような気がした。鬱鬱とした日曜日の午後、とうとう私は重たい腰を上げ、部屋の片づけを始めたのであった。

「仲良くやっているのね」

木曜日の夜に彼女が来た時、彼女は私の状態よりも、薔薇と部屋の状態を確認して微笑んだ。仕事帰りの彼女はスーツ姿だった。いつもよりも社会的で隙がなく、凛とした彼女は眺めていて惚れ惚れとした。薔薇は、少しくたびれていたが、その水は新鮮に保たれていた。部屋の状態も、良好であった。

「次に持ってくる花は、もう少し色あせたものにしてくれないか」

「どうして?」

「色鮮やかなのは、目に触るんだよ。いつも見られているようで、気になるんだ」

「あなたには、それくらいの方がいいのよ。お花ひとつでこんなになってくれれば、私も気楽でいいわ。いっそ、この子にまかせてしまおうかしら」

「それは困るよ」と私は言った。「君がいなくなると、僕は困る」

「知ってるわ」と彼女は言った。そうして優しく微笑んだ。

微笑む、彼女の表情は疲れているようだった。薄く塗られた化粧の、その内側に、荒廃の気がある地肌がのぞいていた。私はその表面をそっと撫でた。隈も、化粧で少し隠しているような雰囲気があった。日常の、そのひとつひとつの痕跡を、私はゆっくりと指先で辿っていった。そこには私の知らぬ彼女の葛藤があり、不安があり、責務があり、享楽があり、日常があり、それらは私の手の届かない場所で営まれていた。

私は彼女が心配だった。しかしその心配を、言葉にするのをいつも躊躇った。どのような言葉も、彼女の内部には浸透しえないような気がした。

彼女に必要なのは常に言葉ではなく、具体的な日常レベルでの解決策であり安らぎであるような気がした。私は、彼女の表面に刻まれる、その痕跡のひとつひとつが愛しかった。私はてのひらで彼女の頬を包んだり、様々な個所に口づけをした。彼女は静かに目を閉じながら、私の愛撫が済むのを待ってた。強張っていた肩の力が次第にゆるんでいく、その変化が嬉しかった。

日曜日、彼女は小さな向日葵とともにやってきた。

「ほら、新しいご主人よ。ご挨拶して」

彼女は向日葵の、猫背になった部分を軽くつまんで上下に揺らした。眩しいほどに色素を含んだ花弁は、何度も頷きながら、上目づかいで私を見つめていた。隣に、晴々とした表情の彼女があった。

「もう、向日葵の時期なのか」

「少し早いけれど、お店でニコニコしていたものだから」

「色褪せたものにしてくれって、このあいだ頼んだろう。真逆じゃないか」

「この季節は色の濃い、元気な花が主流になるのよ。あなたも、たまにはお外でたっぷり光合成しなさいね」

彼女はそれまで花瓶にさしてあった薔薇の状態を見て、抜き取った。花弁は外に開ききり、葉はだらしなく垂れ下がり、黒く腐食していた。凛として美しく誇っていた過去のすがたは、今は完全に失われていた。

「それ、どうするの?」

「どうするって、捨ててしまうのよ」

「薔薇を?」

「生ものなんだから、死んじゃったら、また新しいものにするしかないわ」

彼女はサバサバとした手つきでゴミ箱に薔薇を落とした。朽ち果てた薔薇は、薄暗い塵箱の中でしんなりとなった。花瓶の中にあるより、塵箱の中にあることの方がふさわしく、安心しているように見えた。彼女はもはや薔薇の方には見向きもせず、花瓶の水を入れ替えて、新しい向日葵を花瓶に活けた。そのオレンジの色彩は、小さな太陽のように、部屋を明るく照らした。私はその感覚を彼女に伝えると、彼女は微笑んだ。

私だけは、捨てられずにここにあった。見る限り、表面的な腐敗は進んでいないようだった。しかしそれは表面的だけで、その内部で癌のように浸食を進める怠惰の感情常に燻っていた。私はそれを彼女に見せぬようにふるまおうとした。彼女の日常の負担の中に私を紛れ込ませたくはなかった。しかし、そのような羞恥心や装いはあっけなく彼女に見透かされていた。そのような空気を感じると、私は彼女を抱きしめたまま何も言えなくなった。彼女を抱きしめてしまうと、全く私は失語症のようになって、押し寄せてくる様々な感情の波に耐えるように、そのひとつの支えが彼女であるかのように、しがみつくのだった。

————————

季節が変わるごとに、彼女の服装も、彼女が胸に抱える色彩も変化した。

太陽のように微笑む彼女とともに山吹色のカンナがあり、眼の下に隈を抱えた眠たげな彼女と純白の百合があり、隠しきれぬ不満と怒気に歪む彼女と薄桃色に輝く撫子があり、荒れ狂う嵐の前兆のように不安定な彼女と乳白色の姫女苑があった。淡藤色の可憐な孔雀草を過ぎて、さわやかな葡萄色の秋桜が咲き、ユリオプスデージーが橙に部屋を染め、パステルのパンジーが声を上げて笑い、ユキノシタとともに身を寄せ合って季節を越えた。

「あなたは、どうするつもりなの?」

「わからないよ」

「でも、そろそろ将来を決定しなければいけない時期なのよ」

「考えている。考えてはいるんだよ」

「考えているだけじゃ毎日はあっというまに経ってしまうわ。やりたいことがあるのはいいけれど、生活と両立させる方法を探さないと。あなた、このままでは本当に、駄目になってしまうわ」

私は全く追い詰められていた。

一度破綻した生活と仕事を、どのように復帰させるべきか、私の答えは出なかった。私の社会人としての生活は2年ともたなかった。2年で、あっといまに自分を擦り減らして限界点に達し、責任を放棄した。

自由な空間に放り出された後、今度はその自由さ故に傷つけられた。手に入れたいと願った生活は、あまりにも獏洋として無味乾燥であり、その色彩はひとつひとつすべて私が塗っていく必要があった。時間管理、方向性、日々の生活、そのような技術は何一つ身につけないままに私は一人ぼっちで、社会の荒野に放り出されていた。そして答えが出ぬままに、季節は一周しようとしていた。

「あなたの人生に、私は何の関係もないんだわ」

ある時、彼女はベッドの中で、切なげに叫んだ。

「僕は君がいることで救われている」

「そんなこと、嘘よ。私は何の影響も、あなたに与えられてあげられていないわ」

「君がいるから、生きていこうと思える」

「それだけじゃ駄目なのよ。それだけでは、あなたは駄目なのよ。私はね、寄りかからないと生きて行けないような、人みたいな字の関係は、そういうのは嫌なのよ。自立したふたつが寄り添いながら生きていく、幅の狭いイコールのような、そういった関係であることがお互いにとって良いことだと思うんだわ。きっと、そうだと思うの」

「そうだね」と僕は同調した。「そう思うよ。本当に、思っている。何もしてあげられなくて、本当に済まないと思っている」

「何かをしてほしいわけじゃないの。そう、きっと何をしてくれていたって、あなたはいいのだわ。でもね、このままではいけないのよ。

僕は彼女を抱き寄せることしかできなかった。腕の中で彼女は固く、頑なだった。僕たちはどこにも行けなかった。その絶望的な予感は、きっと事実だった。

最後に彼女と過ごしたのは、鈴蘭水仙の季節だった。

頭を垂れた純白の花は、今にも零れ落ちそうな水滴に似て、はかなかった。彼女がそれを活けた、その時からすでに、不穏に張りつめた空気はあった。私たちはそれに気がつかぬよう、努めて明るく過ごそうとした。彼女がすき焼きを作り、それを二人で摘まみながら、テレビを見た。なるべく賑やかな番組を選択した。お互いの核心に触れるような、会話も相変わらずであった。

その夜彼女を抱いた時、私の言葉は、もはや彼女の何にも届かなかいことを知った。彼女の言葉もまた、私の圏外にあった。投げられかけた言葉は常に虚空を彷徨った。言葉だけではなく、私もまた虚空のなかで、息もできず方向もわからず戸惑っていた。無重力の精神空間の中で、ただ肉体の欲求だけが真直ぐに彼女を突き刺していた。その矛盾と不純に、私は泣けた。彼女だけが、私の、太陽であった。その太陽は、常に美しく優しく燃え上がっていた。そのあたたかみのなかに自分があるということが、私の唯一の誇りであった。しかし私という惑星の軌道は、だんだんと逸れていくような軌跡を自ら選択し、ついには何か大きな惑星が障害となって彼女の光が届かなくなった、そうさせようとした私の引力の責任であった。私はそこに安住したまま、できることならもう延々に浮上することなく、強すぎる自らの重力の重さに耐えかねて消滅してしまいたいと願った。私の引力に、もはや彼女を巻き込みたくはなかった。彼女の将来は明るかった。

夜が明けると、私の部屋に、鈴蘭水仙だけが残された。

それは涙のような花を滴らせながら、慄然と佇んでいた。私もまた、空虚の中に佇んでいた。春の日差しが、ゆっくりと部屋を満たしていった。次の季節の花はなんであろうと、ふっと私は考えた。私はその日、はじめて自分の足で花屋へ行った。

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