渡されたのはひとつだけ。それでは甘味が足りなかった。
席を立ってカウンターに詰め寄ってバケットに手を突っ込む。3つ。喫茶店の赤いロゴマークが真ん中に小さくプリントされている、オリジナルの砂糖。僕はこの柄が好きだ。映えない生活の中で数少ない好意を持てる物。荒々しく席に着いて、渦巻くコーヒーの中へ順々に流しこんでいく。一時的に表層に築かれた砂糖の山は瞬く間に沈みこんでいく。その様子を彼女は目を丸くしながら見つめている。それは何か重要な儀式を固唾を飲んで見守っているようにも見える。
甘党なの? と彼女は尋ねる。
「別に甘党なわけじゃないよ」と僕は答える。
努めて穏やかな口調で答えようとしたけど、腹の底でふつふつと怒りの沸き立つ音が聞こえた。僕はこれまでどこの党にも所属した覚えなんてないんだ。それが、唯一の自慢と言っていい。
たとえば小学校のとき、元ちゃんとアキラ君がクラスメイトの大半を巻き込んで二大派閥を作っていた。ドンパチドンパチ教室内外で日々抗争を繰り広げていた中で、僕はそのどちらにも加わらなかった。だから双方に目の敵にされた。元ちゃんがクツを焼却炉に捨てれば、アキラ君は下駄箱にトンボの死骸を詰め込んだ。アキラ君が椅子に画鋲を引けば、元ちゃんはリコーダーと給食袋を3階の窓から放り投げた。ノートに落書きでもしようものならあっという間に奪い取られ、廊下の掲示板で見世物にされた。学級新聞には僕を題材にした哀れな4コマ漫画が登場した。なんだか僕をどのように苦しめまた陥れるかを競っていたかのようだった。僕はそんな時だって我慢強く耐え忍び卒業にこぎつけた。少し離れた市内の私立中学を受験したのも、自分で志したことだ。
それは僕の数少ない誇りであった。そんな僕が”甘党”なんかに簡単に属すもんか。そんなこと、アイデンティティーに対して示しがつかないじゃないか。
もちろん彼女はそんなことは知らない。僕は一度だって彼女に自分の過去を語ったことがない。スプーンをかきまぜると、沈殿した砂糖が重ったるく抵抗する。一口、歯が溶け切ってしまいそうな甘ったるさが脳髄に響く。その表情の歪みを見逃さない彼女は、甘いんでしょ甘いでしょ、と楽しげに笑う。そんなに楽しいだろうか。僕が忌々しげにコーヒーをすする様子が、そんなに楽しいのだろうか。そんなことで楽しめるなら、きっと僕の生活だってまた違ったものになったはずだった。
*****
先日のことだ。
喫茶店でひとりぼっち、コーヒーをすする日々が長く続いていた。
それは囚人が刑務所で課せられた逃れがたい日課のように思えた。一日に一度、あるいは二度、カウンターでコーヒーを注文し胃袋の中へ流し続ける。それ以外にやるべきことも見つからず、結局、この3年間で教室1杯分のコーヒーを飲み干したように思える。ご注文は、「コーヒー」、こちらでお召し上がりですか、「はい」、お砂糖とミルクはひとつずつでよろしいですか、「はい」 僕が一日で交わす言葉の大部分はこの二言で済ますことができた。もし今この瞬間、世界中の大部分の言葉が死滅してしまったとしても、僕はそれに気がつくことなく同じような生活を営み続けるだろう。
それにも、いいかげん嫌気がさした。けど他に行くあてはない。僕の目は丸テーブルの向かい側、空白の座席に向けられる。
ここはいつもだだっ広く開け放たれている。ここに座席があることすら忘れ去られているようだ。
たとえば隣の席では大学生風の若々しいカップルが、岡山県の『るるぶ』を広げてなにやら一生懸命話し込んでいる。ショートカットでこざっぱりした彼女は無印のノートを広げて時折メモを取っている。2月だった。春休みの旅行計画を熱心に立てているのだろう、話の様子ではまず岡山に立ち寄り、バスで京都に向かい2泊したあとで、夜行バスで東京に戻ってくるということだった。
そのはずんだ様子がひどく羨ましく思えた。僕にはこれまで一度だって、そんな楽しそうな計画が持ち込まれたことはないのに。それは不公平ではないだろうか。たまには僕にだって、旅行とまでは望まなくとも、喫茶店の向かい側に座ってくれる誰かくらい、いてくれたっていいように思える。それは贅沢な望みとは、どうしても思えなかった。
コーヒーカップを向かい合わせて、僕はブレンドを、彼女はカプチーノを、仲良く並べている。彼女はコーヒーに突き刺したスプーンを意味ありげにかき回し続けている。小さな赤いベルトの腕時計がオレンジの証明に反射して淡くきらきらと光っている。それを僕は目で追いかけている。彼女はそんな僕を不思議そうに眺めながら、なにか手についてる?そんなにじいっと見つめていたら目を回すわよ、と言う。僕は苦笑する。今はうまく喋れなくたって、その時になれば流暢で洒落た日本語が溢れ出すに違いないのだ。
そう考えているうちに、向かい側の席にカプチーノを並べたくなった。なんだか誰かを待っているようじゃないか。もしかしたら、誰か現れてくれるかもしれない。なんだかそれはすばらしいアイディアのように思えた。
僕は胸を弾ませながら、少し緊張してカウンターでカプチーノを注文した。360円。しばらくして手渡されたカプチーノを席に運んで、丸テーブルの向かい側に置く。それはなにやら意味ありげにあわあわとして、もやもやと煙を立ち上らせている。僕はその様子を向かい側に座りながら眺めている。
一体このカプチーノにはどんな意味が含まれているのだろう。僕には一緒にコーヒーをすする相手がいて、たとえば彼女がトイレに席を立っていたり、携帯電話の応対をしていたりで、一時的に席をはずしている、そんな風に見えるだろうか。
僕が自分でコーヒーを二つ注文したことを、周囲はおろか、店員のお姉さんですら気がついていない様子だった。毎日来ている筈なのに、彼女はいつも同じ対応で僕に答える。こちらでお召し上がりですか、はい、お砂糖とミルクはひとつずつでよろしいですか、はい、あとで僕が砂糖を取りにカウンターに向かうことも知っているはずだ。それとも本当に覚えていないのだろうか。僕が頼んだブレンドよりも、カプチーノのほうが60円高い。しかし僕は自分のカップとできたカプチーノとを交換しようとは思わない。それは彼女のものであるし、僕には自分のコーヒーがある。僕は彼女がやってきたら、すぐにそのカプチーノを譲り渡すつもりでいた。
そして彼女が現れる。
自分を見下ろす視線に気がついて、僕は顔を挙げる。そこには、遅れてごめんなさい、といったひかえめな微笑みが浮かんでいる。彼女は仕立ての良いベージュのロングコートを脱ぐと、背もたれにそっとかける。そして静かに椅子を引いて、行儀よく腰掛けて僕と対峙する。
待った? と彼女は言う。
「そうでもないよ」と僕は答える。
もう先に頼んでおいたんだ…。いつも君はカプチーノだろう、そろそろ来る頃だと思って注文しておいたんだ。大丈夫、さっきできたばかりだから冷めていない。だいたいカプチーノは冷めにくいようにできているんだ。いやお金なんて要らないよ。本当に、要らないんだ。お金になんて困っていない。困っていたらこんな生活続けられないだろうしね。本当は僕が稼いだ小銭で気持ちよくおごりたいところだけど、お金はお金だ。気にしなくていいさ。ねえ、僕たちもどこか旅行に行かないか。僕たち、というのも、さっきから隣で楽しそうに話していてねそれが嫌でも耳につくんだ。それがなんだから羨ましくなっちゃってね、別に遠出しなくてもかまわないどこか2泊するくらい…それで十分気晴らしになると思うんだ。お互いにとってそれはとても良いことだと思うんだ
まだ会ったばかりなのに?と彼女は言う。
「会ったばかりなのに」と僕は言う。
カプチーノをありがとう、と彼女は言う。あなたはいつもこうして誰かのためのカプチーノを用意しているの?
「そんなことはない」と僕は答える。
全然そんなことはない。けれど、もし君がたまにでも現れてくれるなら、僕はいつだってカプチーノを用意しておこう。別に毎日来てくれなくてもかまわない、君にだって予定はあるだろうからね。僕にとって時間はいくらでもあるものなんだ、それは全くのっぺりとして起伏に乏しいただそこにあるだけのものなんだ。君の分のカプチーノを注文して、たとえそれが誰の口にも含まれぬまま返却台に返されたとしても、それはさして重要ではないんだ。むしろ少しでも刺激を与えてくれたことに感謝を覚えるくらいだよ。
――ねえ、何を考えているの?
と彼女は問いかける。その言葉に僕はハッと現実に引き戻される。何を考えていたの、その問いかけに僕は答えない。時間にすれば十数秒の思案、浮かんでくる膨大な過去のイメージ。それを言語化してわかりやすく説明する自信は僕にはなかった。それに、何を語ったところで、何も変わらないじゃないか。僕と、彼女との関係性も。世界のあり方も。そうだったら僕は、意味ありげにむっつりと口を閉ざしたまま寡黙な賢者のごとくふるまっていたい。彼女はそんな僕の心境を残さず見透かしているかのように覗き込んでくる。
ねぇ、楽しい?
楽しくなんて、ない。楽しいことなんて、何一つなかったんだよ。でも僕はね、それが僕だけの責任とはどうしても思えないんだ。僕を楽しませてくれない世界の側にも、僕の家族や知人が僕にそうしたように、責めてしかるべきように思えるんだ。僕ひとり楽しませることができないような世界なんて、一体どんな意義があるのだろう。そんな不能な世界に、どうして僕が飛び出していかなくてはならないのだろう。だから僕は毎日この喫茶店でコーヒーを頼むのだ。部屋と喫茶店との行き帰りを、僕の世界のすべてにしたのだ。その中で僕は誰にも邪魔されず、誰にもとがめられることなく、そして誰にも話しかけられることもなく、ただ一切が通り過ぎていくのを眺めているだけなのだ。
僕は彼女の分のコーヒーも片付ける。いいのに、と彼女は言う。いいよ、と僕は言う。返却台にふたつのカップを並べてふりかえると、いつものようにそこはがらんどうとしている。ただ椅子にかけておいた僕の黒いジャンバーだけが、寂しげに佇んでいる。
「待った?」と僕は言う。
そうでもないよ、と彼は答える。
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