楽園の柱

ごおんごおぉんごおぉぉん……と丘の上の時計台が鳴りました。

水車小屋の裏を流れる小川の淵で、夢の羊とたわむれていた少年は、くるりと丘の時計台を振りむいて時計盤を確認しました。時計版の目盛りは全部で9時までしかなく、その短針が8時をまっすぐに指し示しています。少年の顔に、安心したような穏やかな微笑みが広がりました。

「ようし、これが最期の追い出しだ。僕は行くからね」

角笛をきちんと腰におさまっていることを確認すると、羊の頭をくしゃくしゃと撫でてから、傍へ放ってある朱色の原付バイクに跨がりました。

バイクはピカピカに磨き上げられて、その車体は、化石を閉じ込めた琥珀石のように草原の風景を淡く反射しています。エンジンをかけると、バイクはしゅこしゅこと奇妙な音を立て、排気管からは薄紫色の煙の代わりに虹色のシャボン玉が吹き出します。駆動音はなく、ただシャボン玉がポコポコと生まれては破裂していく気の抜けた音を産み落としながら、少年は草原を横切って北西のゲートに向かいました。8時には北西のゲートから、夢の羊を星空に放してやらなければならないからです。

時計塔のある丘を抜けると、眼下は一面の草原です。

そうして夢の羊たちがぼうっと優しい光を灯して群れています。

それは瑠璃色であったり、パステルの水色であったり、翡翠色や孔雀石や、まるでお姫様の宝石箱をひっくりかえしたような様子です。しかし色彩はどれも優しい水で溶かしたようなうすい色なので、アンティーク・ランプの展示会のようにも見えます。

草原は、少年がちょうど見渡せる広さにありました。

丘から見ると、それは横にしたピーナッツのような形をしています。緑の淵には白樺でつくった背の低い柵が囲んでいて、その先にはもう目も眩むばかりの満点の星空です。草原は緑の船艦となって、星空の海を浮かんでいるのでした。

*****

北西ゲート付近には、羊たちが群れをなして少年の到着を待っていました。

色彩も大きさもてんでばらばらな光の群れが、バイクのしゅこしゅこという音に気がついて、しずしずとその道をあけました。少年はそのまんなかを隊長のようにゆっくり進みながら、銀色のゲートの隣にバイクを置きました。

「さあ、君らで最後だ。ねぼすけはいないか。みんなそろってるかい」

少年は腰から角笛を取り出して、ぼうぼうぼぉうと3回、大地に染み込ませるように吹き鳴らしました。

すると音は草原を伝って電気信号のように羊の身体を巡り、そのへんに転がっていた何疋かが起き上がって慌てたようにこちらにやってきたのです。少年は満足げに光の群れを見渡して言いました。

「さあもうみんないるな。みんな起きてるな。遅れたら明日まで留守番だよ。そら行った」

少年はゲートを開くと羊を促しました。ゲートの向こうはもう真っ暗闇の宇宙の奈落です。

最初の一疋が恐る恐る顔を出すと、草原からちょっと出たとたんに身体は収束して、ひとつの蛍石のように輝いて、真空の中をすうーっと、そうして瞬く間に勢いをあげて向こうの星空へと吸い込まれていったのです。

他の羊たちも安心したように、彼に倣ってゲートの外に飛び出しました。身体の色に合わせて、水晶や琥珀や瑪瑙や瑠璃色の色とりどりの宝石となって、北西の星空へバラまかれていきました。まるで打ち上げ花火です。光の川です。それでも暗闇を怖がる羊は、少年がそっと背中を撫でて説得してやったり、小さいものだと、そのまま首根っこを掴んでぽいと放り投げたりして、それらは美しいトルコ石となって飛んでいったのでした。

そうして柵の周りの羊がみな揃って星になったことを確認すると、彼はゲートをカタンと閉めました。あれほど賑やかだった周辺はうそのようにまっさらです。あとはただ天の川が流れるさらさらという音色だけつつましく流る静寂に包まれました。

「さあて、帰ろうか」

少年は赤いバイクをしゅこしゅこと吹かして、水車小屋へと戻りはじめました。するととたんにぼんやりしてきて、宇宙の星のひとつに吸い込まれるようにすうーっと飛び上がる心地がして目の前はもうまっ白になるのでした。その白銀のなかをたゆたっていると、激しい金属音が頭を叩く音がします。しばらく我慢していたのですが、うるさいなあと音を上げて瞳をあけると、くすんだ白の見慣れた天井が見えます。金属音は枕元の目覚まし時計が鳴っていたからで、少年は自分の部屋のベッドで眠っていたのでした。

2

少年は起き上がって学校の支度をはじめました。

夢追いの仕事は彼の”夢”として片付けられるので、不思議と眠気は起こらず頭はすっきりしています。

少年は中学3年生です。

12歳で”夢追い”になってからはずっと、昼間は学校に行き、夜は夢追いの仕事をする生活を続けてきたのです。

“夢追い”――というのが少年の役割でした。

私たちは夢を見てもすぐに忘れてしまいます。二三日は覚えていても、記憶の底に押しやられてしまうのがほとんどです。時折ずっと覚えているような夢もありますが、そんなのはごく一部です。そんなのはみんなこの夢追いの仕業なのでした。

夢追いの仕事は、夢が人々の意識や身体のなかに溜まりすぎないように、遠い銀河へ逃がしてやることでした。夢が溜まりすぎると、生活や精神のバランスが崩れてきてついには破綻してしまいます。夢追いはそうならないよう、夢を星に変換してやるのです。

人々の夢は、夢追いの草原に”羊”となってやってきます。

羊といっても、彼らには顔も手脚もなく、淡い光の集合体でした。大きさはてんでバラバラで、1メートルくらいの大きなものから、手のひらに乗るような小さいものもあります。どれも、そのまんなかに淡い光を包み込んでいて、それが彼らの全体を照らして、なにか暖灯のような光り方をします。小さな色とりどりの大陽を包み込んだ雲のようにも見えます。それが草原を漂っている様子を丘から見ると、まるで羊のように見えるので、少年は”羊”と呼んでいたのです。

しかし――その役割ももうすぐ終わりです。

2週間後に、少年は15歳の誕生日を控えていました。

夢追いは、選ばれたひとりの少年が、12歳から15歳の誕生日を迎えるまで担当します。そうして15歳になると、またあたらしい少年が選ばれて、彼が次の3年間を担当するのが決まりでした。部屋のカレンダーを見るたびに、少年はいつも(あともうすぐで終わりか…)と少し残念な気持ちになるのでした。

(僕は15歳の誕生日を迎えられる。しかし…彼女はどうなるだろう…)

自分の役目が終わることよりも、もっとずっと、重大で切実な心配事があったのでした。

学校が終わるとすぐに、所属する天文部や教室に残るクラスメイトには見向きもせず、少年はもう西に向かう電車の中におりました。

市の中心街で降りると、今度はバスに乗り継ぎます。バスのおでこには、市で一番大きい総合病院の名前が印字されていました。

病院の受付でお見舞いの手続きを済ませると、脇目も振らず病院内を一直線に向かいます。足取りに迷いがないのは何度も通っている証拠です。実際、何度どころではないのでした。エレベーターで5階にのぼって、ナースセンターの角を曲がります。大部屋をいくつか過ぎて、ひとつの個室の前で立ち止まりました。軽く呼吸を整えてから、ドアをノックして扉を開きます。

そこにはベッドに横たわるひとりの女の子がおりました。

口には呼吸器をあてられて、体中からたくさんの管が伸びて、ベッド横の複雑な機械に繋がれています。機械は規則正しく、彼女の心拍音に合わせてピコピコと動いています。少年はそれを確認するとほっとしたような表情になり、そっと彼女の脇に近づいて、その顔を覗き込みました。

彼女は穏やかな表情をうかべる陶磁の人形のようです。汚れを知らぬ赤子です。人形師によって生命を吹き込まれる一歩手前の状態のようです。それは髪の毛がすっかり抜け落ちたきれいな曲線や、透き通るほどに白い頬の色味がそう見せるのです。それらはみんな、つい1週間前の彼女にはみな備わっていたものでした。大陽の光を浴びて黄金に輝く栗色の髪も、磨き上げられた上等の黒曜石のような瞳も、胸をしめつける優しい微笑みも、今はもう嘘のようにしんと静まりかえっています。

「こんにちは」

少年は枕元の椅子に座って話しかけました。その口調はあくまでも明るく弾んだものです。実際、彼女に会えて、心配の気持ちよりも嬉しさの方が断然多かったのです。

「もう、教室はすっかり修学旅行の話題でいっぱいだよ。自由時間の一日をどこに行こうかなんて、地図とガイドブックと時刻表をにらめっこしてる。京都なんて、あんなにお寺が多いのだから困ってしまうよ。それに、自由行動と言ったって、きっとみんな金閣、銀閣、清水寺…日本史の授業で登場して、大きくて、派手で……そんなところで鉢合わせになると思うんだ。仕方がないよね。初めていく場所のことなんてなにも知らないんだもの」

「お土産は、何が喜ぶだろうか。京都には小奇麗で洒落た小物がたくさんあるという話だよ。驚かせられるような、キラキラとしたもの、シリウスまでは目立たなくても、カペラほどの優しい光を携えたもの…。ねえ、これまで色々君と話してきたつもりだけど、何をあげたら君が喜んでくれるのか、まったく見当もつかないんだ。それだけのことで、本当は何ひとつ君のことを知らないんじゃないかという気になってくる…」

1週間前の手術から、彼女はずっと意識不明のままでした。もはやどれだけ生きていられるのか、それすらもあやふやな蜉蝣のような命の灯です。開け放たれた窓から流れてくる風に溶け込んでしまいそうな彼女の儚さです。

「今日の草原に、君の夢は来てくれるだろうか…」

彼は呟いて、そっとこの星読みの少女の頬に触れました。

4

少年がはじめて草原にやってきたとき、水車小屋には前任者の少年がおりました。

彼は3日後に15歳の誕生日を控え、少年もまた3日後に12歳の誕生日を迎える予定でした。その3日はいわば引き継ぎ期間で、少年は夢追いの仕事を覚えなければなりませんでした。

「1時になったら北のゲートを開けて羊を出す。2時になったら北東のゲートを開ける。3時になったら東、時計回りの順番だね。そうして8時に北西のゲートを開いて羊を放りだしたら、その日の仕事はおしまいだ」

丘の上の時計台を指さしながら彼は言いました。時計台はレンガ造りで、水車小屋から見ると、細長いチョコレート板のようにも見えます。頭には銀色の時計板をつけていて、1時間が経つごとに、ごおんごおんごおぉんと決まって3回、何時にも関係なく鐘が鳴って草原の隅々を振動させました。また不思議なことに時計板は9時までしかないのでした。

草原には合計して9つのゲートがありました。北、北東、東、南東、南、南西、西、北西の8つ。そして水車小屋の裏手の、ちょうど南南西の方向に、他のゲートとくらべてこじんまりとした、人がひとり通れるくらいのゲートがありました。南南西のゲートには金色の錠がかかって開かないようになっています。

「ということは8時間も眠らないといけませんか」

その当時、少年は8時間はきっちり眠っていたのですが、それを強制されてしまうと、なんだか緊張してうまく眠れないような気がしたのです。

「たとえ君の睡眠時間が12時間であろうと、3時間であろうと、ここで過ごす時間は変わらないよ。実際の時間とは流れる速度がちがうからね。1時間に1回、柵を開けて羊を外に出してやる。羊は、時間になると自然と柵の近くに集まってくるよ」

3時の鐘がごおんごおんごおぉんと鳴り響くと、赤色の原付バイクの後ろに乗せられて、東のゲートに向かいました。ゲートは水車小屋を流れる天の川の先にありました。柵に近づくにつれ、たしかにその周辺に羊が溜まっているのがわかります。天の川はちろちろと柵の外へ零れ出て、そのままさらさらとした銀色の粉になって宇宙を流れていきます。

「たまにねぼすけがいるからね、この角笛で起こしてやるんだ」

彼は腰に下げた角笛を取り出してぼおうぼおうぼおぉうと大地にしみ込ませるように吹きました。音は草原を伝って電気信号のように羊の身体を巡り、そのへんに転がっていた羊の何疋かが起き上がってもそもそとこちらにやってきました。

「どうして自然と羊が集まってくるんですか」

「星がかれらの光と共鳴するからじゃないかな。旅立つ先の宇宙に呼ばれる声を聞くのかもしれないな。それが彼らの本能なんだよ」

そうして羊をみんなゲートの外に追いやって、みんな流れ星にしてしまうのでした。

「これでおしまい。これが夢追いの仕事だよ」

簡単だろ、とでも言うように彼は両手を広げてみせました。たしかにそれは少年にもできそうでした。

「外に出し忘れた羊がいた場合はどうするんですか。角笛にも起きずに、寝坊してしまったのがいたとすれば」

「そのときはまあ、他の方向の出発にまぎれこんでしまうか、翌日の同じ時間まで待っているだろうよ。ただそうゆう例はきわめて少ないけどね。さっきも言った通り、これは本能に関わる行為なんだ。本能に関しては、僕らよりもずっと彼らは真面目だよ。あと、ゲートは必ず鐘が鳴り終わってから開けるんだ。鐘の鳴る前では星の方で準備が整っていないからね。いき場所が見当たらなくて迷子になってしまう。鐘が鳴ってから、ゆっくり歩いて向かって、のんびりゲートを開ければいい。急ぐ心配はないよ」

「もしも僕がうとうとして、鐘の音に気がつくことがなかったらどうしましょう。うっかりしてゲートを開けるの忘れてしまうかも」

「さあ、どうなるんだろうな。まずこの世界でうとうとすることはないよ。そもそも君は寝ているのだからね。寝ている上に寝るなんて贅沢なことは身体の方で求めやしないよ。そうなると、ゲートの開け閉めと羊とたわむれるくらいしかやることなんて他にないんだ。だんだん鐘が鳴るのが楽しみになってくるよ」

「時計の針は9時まであります。9時には何をすればいいですか」

「9時になにをすればいいかは、当分の間考えなくていい。どうせ時計が9時になる前に、君は目覚めるんだから。もしわからないことがあれば星読みの彼女が教えてくれる。彼女に聞くといいよ」

「星読み?」

「そう。君と同じ星に関する仕事をする女の子さ。ここが君の草原になったら、すぐにでも現れるよ」

5.

3日後、少年は12歳の誕生日を迎えました。今日から、少年は正式な夢追いとして働きます。

「最初の頃は、なんだいこんな役割、俺はゆっくり寝りたいのにと思ってたのにね。羊にも会えないし、時計の音も聞こえない、全てはそのうち忘れちまうと考えると寂しいものだね」

彼はぐるりと周囲を見渡していいました。たしかにここは、彼の草原だったのです。

「水車小屋にあるものはなんでも好きに使っていい。もう、君の小屋だ」

「赤色のバイクはどうですか」

「もう、君のバイクだ。俺が調達したんだよ。なかなかいいだろう。燃料は天の川の水なんだ」

彼が行ってしまうと、少年はただひとり草原に取り残されました。

草原どころではなく、宇宙空間に取り残されたような、それは絶対的なひとりでした。

少年は鐘が鳴るずっと前にはゲートの付近にいて、鐘の鳴るのを待ちました。鐘がごおんごおんごおぉんと鳴ると、時刻と方角を、横断歩道を初めて渡る子どものように何度も確認して、ゲートを開いて慌てたように羊を外に出しました。羊は、担当の少年が変わったことにはまるで頓着せず、しずしずとゲートを潜っていったので少年は安心しました。

角笛は最初うまく音が出ず、ぶうぶうぶぅうとくぐもった音ばかりがでて、なんだか羊たちも呆れて笑っているようです。それでも1日8回も練習の機会がありますので、3日後には前任者の彼と同じくらいの音色を出せるようになりました。

ちょっと得意になった少年は、腰のホルダーに角笛を収めるときも堂々と胸を張ったのです。赤色バイクも、最初はころころ転んだり、エンジンがうまくかからなかったりと苦労しましたが、慣れてくると案外自転車と同じ感覚だなと思いました。ゆっくり草原を走らせると、排気管からぷかぷかと虹色のシャボン玉が次々に生まれていきます。興味を持った羊たちはそのしゃぼんの跡を追いかけて、どちらが多くを割れるか競争するようにまんまるになって戯れます。

水車小屋のなかは、ダイニングキッチンと本やレコードの詰まった書斎部屋に別れていました。どこも檜のいい匂いでいっぱいでした。キッチンには中東やアジアの紅茶や、アフリカや中南米の珈琲や、日本茶の茶葉も何種類かおいてあり、自由に飲むことが出来ました。水は、水車小屋を流れる天の川の透き通った水を汲んでくるのです。大きなテーブルと、窓際のハンモックと、壁に飾られた木彫の彫刻と、ふさふさとした仕立ての良いソファ。それらをやわらかい橙色の暖灯が照らしています。

書斎にはたくさんの本がありましたが、残念ながらどれも外国語や世界史の教科書で見かけた象形文字の類で執筆されており、まるでへんてこです。レコードなど生まれてこのかた見たこともありませんでした。これは前任者の少年が汚い文字で一生懸命説明書を書いてくれたようで、その通りにセッティングをして、レコードの一枚にストンと針を落とすと、ざらざらとしたかすかな砂嵐のあとで、驚くほどやさしい女の人の歌声に包み込まれました。それは思わず泪が出てしまうほど、やさしく、慈愛に満ちた、異国の街の音楽でした。少年は毎日レコードを取り替えて、そのたびに新しい感覚が泉のように沸き上がるのでした。

あとはもう天の川のほとりにある切り株の椅子にすわってぼんやり星を眺めているか、羊を追いかけて遊んだり、いっしょにまるまって戯れるくらいしかやることはありません。

羊は不思議な感触がしました。なにか透明な南の風をなでているようです。そして内側に包んでいる色彩の温度によって、その体温も変化しました。暖炉の火にあたっている心地のするものもあれば、冬の湖面に手を浸らせるほど冷たいものもありました。そしてその温度は、動物の体温とはまったく違う、自然界にある湖や岩肌や樹木や大地の温度を借りてきているような気がしました。無機質でありながら、なにかささやかなものが宿っている気がするのです。

ときおり色彩が指先を伝って、少年の感覚器にとくとくと流れ込むことがありました。それは少年の感情や思い出の琴線に触れて、哀しい音を立てることも、昂揚感がわきあがるときも、様々な音色を奏でるのですが、それを具体的な言葉やイメージに置き換えることはどうしてもできないのでした。

羊は誰かの夢の結晶なのですから、感覚を研ぎすませればその内容を読むこともできたかもしれません。しかし、夢というものは、その人の深層意識の本人でさえも把握できない未知の神聖な部分が蜃気楼のように現れたもので、いくら夢追いといえど、そこまで踏み込む権利は持ち得ませんし、実際そんな能力は与えられていないのでした。ただ、夢追いはその色彩を感じとって、新しい星として放すだけです。夢の遊び場を解放してやるだけです。

結局、とうとう、少年はひとりぼっちなのでした。

そうしてそれが、あと3年も続くのでした。

美しい風景があります。やわらかい羊がおります。満天の星が瞬いています。ただ、それらが美しければ美しいほどに寂しさはいっそう醸成されて、耐え難くしめつけられることがあったのです。

6

少年が夢追いに就いて5日後でした。

南東のゲートから赤色のバイクに乗ってしゅこしゅこと水車小屋に戻ってくると、入口の階段に、女の子が座っておりました。

彼女は足下に擦り寄ってくる琥珀色の羊をやさしく撫でていました。年の頃は、ちょうど少年と同じ頃ですが、総じてこの年齢の女の子は、男の子よりもずっと大人びて見えるものです。

小屋の天井から下げられたランプが彼女の栗色の髪を淡い黄金に照らしています。少年が少し離れたところにバイクを置いて近づくと、彼女も顔をあげてにこっと笑いました。

「こんばんは」

「…こんばんは」

「その、バイク、面白い音がするのね。ずっと私、見ていたのよ。この子と一緒に」

少年はどう対応すればいいのかわからず、女の子と羊を交互に見比べるだけでした。

「ねえ、私も乗せてくれない?」

「バイクに?」

「そう。一周してみたいな。案内してよ」

少年は赤いバイクを起こして跨がると、すぐ後ろに彼女も横に乗りました。やわらかい匂いが木蓮の花のようにただよいます。少年は恥ずかしくなって、前を向くその顔はほおずきのように真っ赤です。

しゅこしゅことシャボン玉を吐き出しながら、天の川沿いにずっと東へ向かって、それから柵に沿ってずっと草原を走りはじめました。

「ねえ、君は誰?」

「私、星読み」

「ほしよみ?」

「あら、前任者から聞いてなかったの? 夢追いと星読みは一緒になってお仕事をするのよ」

そういえば、彼はそんなことを言っていたような気がしました。

「でも、この5日間はいなかったじゃないか」

「だって、今日ようやく12歳になったんだもの」

「そうなんだ」

「おめでとうくらい言ってくれてもいいのに」

「おめでとう」

「ありがと」

星読みの彼女は気持ち良さそうに星空を見上げていました。磨き上げられた黒曜石にダイヤやサファイヤをちりばめたような満点の星が広がっています。彼女は親しい友人と対面したときのような優しいまなざしを向けていました。

「星読みはなにをするの?」

「星読みはお星さまの声を聞くの。お星さまの発する光を指先でたどって、感情や言葉を感じ取るの。ずっと遠い銀河に浮かぶ銀色や黄水晶のお星さまの声まで届くのよ。すごいでしょう」

「すごいや」

「お星さまだって孤独なときがあるでしょう。嬉しいときがあるでしょう。今日は熱の温度が高くていつもよりも青白く輝いてるんだなんて近況報告もあるでしょう。でも他のお星さまとは何光年も離れているときもあるし、スピカやカペラに思いを寄せていても気持ちが届かないこともあるでしょう。そうゆうものの仲立ちもしてあげるの」

「すごいや」

「きっとね」

「きっと?」

少年は思わず振り向きそうになるのを、慌ててハンドルを握り直しました。

「そうゆうのは、きっと私の本体がやっているでしょうね。でもまだ全然慣れなくて、別次元の惑星のでたらめな外国語の洪水を浴びているようでくたくたでしょうね」

「君はいったい誰なの?」

「私は、星読みの私の夢よ。夢追いの草原には夢しか入ってはいけないでしょう。私が星読みをしている間、夢の私はこちらに来てるの」

「じゃあ君はここでいったい何をしてるの?」

「遊びにきてるのよ。ね、一緒に遊びましょう」

その日から少年は少女と一緒に夢追いの草原で過ごしました。

最初のうちはゲートについてきて羊の放出を眺めていましたが、それにも飽きてしまうと、自由にバイクを乗り回して草原一周のタイムを競ったり、羊を積み重ねてピラミットにしてみたり、書斎で象形文字の本に取り組んだり、星の石を小川に投げ入れて波紋の研究をしたり、レコードの歌詞を覚えて一緒に歌ったりしていました。星空に絵を描いてみたり、書斎の本を草原に広げてドミノ倒しをしたり、紅茶の名前を全部言い当てるようになったり、ほんとうに別荘に遊びにきている無邪気な女の子というようです。彼女の手にかかると、こんな限られた空間の中で、少年が思いもよらない方法で楽しい遊び方を思いつくのでいつも感心するばかりでした。

夢である彼女もまた、23日後には草原のどこかのゲートから、出て行かなければいけませんでした。それを彼女は「お家に帰る」と表現しました。

北西のゲートで、少年は彼女を見送りました。

「外に出るの、怖くないかい。僕なんか永遠に落ちてしまいそうな気がする」

「星になるってわかっているのだから、怖いわけないよ。それじゃあ、また来るからね」

そうして彼女は光に包まれて翡翠色の流星になって空をどこまでも明るく駆けたのです。

*****

彼女が現れるのはてんでバラバラでした。

翌日少年が草原に来るともうひとりで遊んでいたり、1週間も連続で姿を見せないときもありました。さすがに少女の本体になにか起こったのではないかと心配していると、大きな羊の背中に乗って、のしのし草原を徘徊していたりするのです。

「どうして来たり来なかったりする日があるんだろう。君、一週間も来なかったぜ」

この頃にはもうすっかり少年は少女に慣れて、仲のいい兄弟のようでした。

「私、そんなに来なかったかしら」

「そうだよ」

「自分ではわからないのよ。本当に夢を見なかったのかもしれないし、夢の濃度が薄すぎて草原に来る間に宇宙に流れてしまったのかもしれないし」

「星読みの仕事ってゆうのはたいへんそうだね」

「本当。でもね、理解できるかできないかはっさほど重要ではないらしいの。大事なのはお星さまの声を聞いてあげることなんだって。それで、もうほとんど役目を果たしているらしいわ」

「ところで、現実の君はどこにいるんだろう。僕と同じように学校に通っているの?」

そう言うと、少女は呆れたように少年の顔を覗き込みました。

「同じように、どころか、おんなじ学校にいるじゃないの。あなた、気づいてないの?」

7

学校で彼女を見つけた時の、白昼夢に突然吸い込まれたような強烈な感覚を、今でも少年は良く覚えています。それは初秋の朝、まだ半分も教室が埋まらない朝の早い時間でした。

D組の教室を通り過ぎるときなにげなくそちらを見たのです。窓際の誰もいない空白のなかに、ぽつんと、彼女ひとりが座っていました。

開け放たれた窓からやさしい風が流れ込んで、教室を踊りながら旋回しました。彼女は文庫本を左手に開きながら、その様子を追いかけていたのです。風は教室をくるりと一周すると、開け放たれたドアの方へ飛んできて、そこに立っていた少年の前髪をさあーっと吹きあげました。そこで、彼女と瞳が合いました。

実際の少女は、夢で会うときよりもずっと静かな印象でした。そうしてずっと繊細でした。透明なガラス細工のようでした。

草原で奔放に遊ぶ彼女の夢とはまるで正反対です。小柄な体躯も、細い手脚もや首の頼りないラインも、すべては見覚えのある筈なのに、実際は全てが異なっているようでした。そしてなにより、切ないほどに懐かしく、現実の彼女に出会えた喜びが細胞いっぱいに満たされたのです。

彼女と対峙しながら少年は、たしかに彼女の瞳の奥に、星の燃える輝きを見たのでした。もちろん、夢追いの少年にしかわからない焰の瞬きです。彼女は彼女で、少年のどこかにその証を発見したようでした。そっと、雲間に隠れる寸前のお日さまのような淡い微笑みを浮かべました。

放課後、ふたりの姿は屋上にありました。

屋上からは、住宅地のこまごまとした模様をした絨毯と、すこし弧を描いた地平線いっぱいに広がるおだやかな太平洋が見渡せました。反対側では、強い西日が遠くに並ぶ連峰の背中を照らして、濡羽色の濃い影を町に焼き付けているのがわかります。

「いつ気がついてくれるのかなと思ってたんだけど、ようやく見つけてくれたね」

と彼女は言いました。少年は決まりが悪そうに下を向きました。

「他のクラスの生徒なんて、全然わからないんだよ。自分のクラスの人だって、まだ全員名前が言えるわけじゃないから」

「何度か擦れ違うこともあったじゃない。あなたはいつも下ばっかり見てたけど」

「声をかけてくれればよかったのに。そうすればすぐに、気がついたよ」

「私の夢は、何度もあなたに会ってるかもしれないけど、私自身は会ったこともないわけでしょう。だから、あなたが私を見つけてくれるまでは、不自然かなと思って」

これは少年には意外な答えでした。彼女の夢と、彼女の意識は繋がっていると思っていたからです。

「どうして僕が夢追いだってわかったの?」

「私の夢は星になったのでしょう。そうなれば私とお話できるのよ。彼女が聞かせてくれたの。草原で働くあなたの姿や何をお話したのか…。なかなか真面目に働いてるじゃない。みんなも安心して夢を任せられるね」

彼女の眼下には町の全体が一望できます。たしかにこの町の人々の夢はみな、少年の草原にやってくるのでした。

「ねえ、私の夢って、どんな感じ?」

「凄く元気だよ。男の子みたいに草原を走りまわってる。天の川で魚釣りをしたり、星空に絵を描いたり、夢の羊を積み重ねて遊んだり…」

「いいなあ楽しそう。やっぱり私の夢なんだな…」

納得したような、寂しそうな微笑みを浮かべて彼女は海の向こうに顔を背けました。彼女の寂寥の正体がわかるのは、もっとずっと後になってからのことでした。

8

いつものように、大部屋の窓際のベッドに、彼女はいました。

病院から支給された素っ気ない無地のパジャマ姿。下半身を薄手の掛け布団に潜らせて、腿の上で何かノートに書いているようです。開け放たれた窓の向こうに、くすんだ街並が広がって、海岸線に繋がっています。

ちょうど他の患者さんを検診していた看護婦の菅谷さんが入口の少年に気がついて、「こんにちは」と声をかけました。

「今日は、あら、ずいぶん早いのね。それに、なんだか久しぶりね」

「最近はテスト期間だったんです。今日が最終日だったので…」

病室に来るのは8日ぶりでした。それは、少年にとっては長い期間の不在でした。

「そう、もうそんな時期だものね」

「病院の前の並木の桜も、少し咲いていましたよ」

「あらほんとう。そうね、そういえば、咲いていたかもしれないわね」

僕らの声に彼女が気がついたようで、ひだまりから顔をのぞかせてこちらを見ました。菅谷さんもそれに気がついて、「じゃあまたね」と言って、患者さんの検診に戻りました。

彼女が市の総合病院に入院したのは中学2年生の夏でした。

それまでも、彼女は学校を休みがちで、空白の彼女の席を眺めながらいつも少年は心配していたのです。2年生のクラス替えで彼女と同じ教室になってからというもの、彼女の夢からは想像もできない、病弱な側面を次々目の当たりにしてきたのです。夏休みが開けると、もう彼女の姿はありませんでした。

詳しい病名は少年も知りません。彼女自身も、当時は知らなかったことは、彼女の夢との会話で明らかでした。

「お見舞いに行ってもいいのかな」と少年は彼女の夢に訊ねました。

「いいもなにも、いけないわけないじゃない。きっと私、喜ぶわ」

はじめて降りる中心街の駅と、慣れないバスロータリー。額に総合病院の名前が印字されているのに、正しいバスに乗っているのかという不安感。見慣れぬ街並の様子と人の流れ。はじめて病院にたどり着いたときには、学校からは40分もかかっていないのに、へとへとで辿り着いたことを覚えています。

病院の窓口でお見舞いの手続きをしたときの緊張感、学生服で病院内を歩くことがひどく恥ずかしくいろんな人の視線が突き刺さるようで、ようやく彼女の病室に辿り着き、窓際の彼女を確認したときの安堵感、それらの感覚がもう懐かしいくらいに、少年は足しげく病院に通っていたのです。

ただ、窓際の彼女を確認したときの安堵感だけは、何度病室に顔をのぞかせても、いつも新鮮に少年の心に打ち寄せるのでした。南の大陽をいっぱいにすいこんだ瑠璃色の波です。

今日、8日見ないうちに、また少しだけ痩せたようです。痩せたというより、ただでさえ小柄な彼女の全体が、また少し縮んだというような気がしました。

「いらっしゃい」

彼女は腿の上でノートを閉じて、少年を見上げました。少年は脇の小椅子に腰を降ろしました。

「何を書いていたの」

「秘密だよ」

「日記かな、物語かな」

「だから、秘密。ね、テストどうだったの」

「相変わらずだよ。でも、クラスで5番以内になったら親父が小遣いくれるなんて言うものだから、随分頑張ったよ」

「それで、何を買おうと思っているの」

「内緒だよ」

彼女は楽しそうに笑いました。少年は、久しぶりにこうゆうやわらかいものに触れたと感じました。

「ねえ、こないだ話してた、草原の星座についてはどうだったの」

「ああ、そうだった」

草原ではあまりに星がよく見えるので、先日彼女から星座の手ほどきを受けたのでした。

彼女は夜空に描かれた星座の物語を、まるで旧知の幼なじみを紹介する素振りです。彼女自身のことを話すようです。よどみなく流れ出る物語を、しかし少年にはとても覚えきれません。
とにかくペガサスや白鳥やカシオペヤやオリオンといった、特徴のあるカタチの星座を覚えさせられると、さっそくその日の夜、夢の草原で探してみたのでした。

ところが、草原にはダイヤモンドの鉱山をひっくりかえしたように無数の星々が散らばっていて、何か特定の形を探すどころではないのでした。もちろん明度の差はありますが、肉眼で確認できる等級の星があまりにも多すぎるために、どのようにも絵を描けるような気がして、ただただ圧倒されるばかりだったのです。翌日も、授業の合間に復習をして、新たにペルセウスやケフェウスやオオイヌ座や夏冬の第三角を仕込んだのですが結果は同じで、まったく歯が立ちません。

「もしかしたら宇宙の別の場所から眺めている空なのかもしれないな」

と彼女は僕の報告を面白そうに聞きながら言いました。

「たとえば地球から星を見るのと、木星から見るのとでは、見える星の形が違うでしょう。あなたの草原も、宇宙の別の場所にあるのか、それかまったく別の宇宙のお話なのかもしれないな」

「まったく別の宇宙」

「それか、夢のなかだからてんででたらめなのか…きっとそんな気がするけど」

「もし僕が君のように星野位置や形や物語を把握していれば、そのように星の形も変わるかもしれないよ。これまでまったく星に興味を持ったことがなかったから、星の配置なんて正確な筈がないんだ」

「じゃあ、変に覚えない方が楽しいかもしれないね。自分で描けばいいじゃない。これは猫座で、これはアルキメデス座で、これは未来座でって」

「そんな名前の星があるの」

「適当に言ってるだけだよ。あなたがつくるのよ。昔のギリシャ人みたいに。その物語を、読み聞かせてくれれば楽しいのにな。夢追いのお仕事って、羊の世話だけやればあとは時間があるんでしょう。それか聞いてみればいいじゃない」

「誰に」

と僕は聞き返しました。

「私の夢に。星の形も、私の夢なら知っているでしょう」

「そうだった」

 

*****

 

その夜、少年は小川の淵に寝転んで星空を仰いでいました。

もう水車小屋のなかで勉強をする必要もありませんでした。気楽なものです。

星は今日も青光りしてどの光が美しいかを競い合っているようです。少年は目立つ星を探してきて線を引こうとするのですが、一度引いた線をもとにたどろうとすると、もう星は移動したのか明度を譲り渡したのか見失って、もう同じ線は引けず、途方に暮れるのでした。

そんな様子に興味を持ったのか、淡い薄桃色の羊が膝に擦り寄ってきました。

これまでも何か特定の感情に満たされていると、なにか共感するものがあるのか、同じ匂いがするのか、羊がもそもそと草原をやってきて近づいてくることがあったのです。少年はそっとその身体を撫でました。さらさらも、ふわふわも、ありません。ただ南の風に触れているような感覚です。かすかにその羊の体温はあたたかく、指先だけがひだまりのなかにあるようでした。羊は心地良さそうに身体を振るわせました。

羊と会話することができたらいいのに、といつも思います。あるいはその夢の内容を映画のように見ることができたらと思います。しかし夢追いには夢の内容を読む能力はありません。もしかしたら星読みと同じように、夢読みという仕事も、どこかの少年少女が役割を担っているのかもしれませんが、それはまた別のお話です。少年にできるのは、こうして夢に触れてお互いを慰めあうことだけでした。

羊が鼻をふるわせて、ふっと僕の上側を見上げました。つられて視線を上にずらすと、彼女の夢がのぞきこんでいました。

「こんばんわ」

「こんばんわ」

彼女の夢は少年の隣にしゃがみ込んで、羊の頭を撫でました。羊は気持ち良さそうに咽を鳴らしています。

「もう勉強しなくていいのね」

「テスト、終わったからね」

「でも変な人。夢の中にまで勉強道具を持ち込んで。そんなもの持ち込んだの、これまであなただけじゃないかしら」

「うるさいなあ。もう終わったんだ。いいだろう」

「それで、こんどはなにをしているの?」

「星座を探してるんだよ」

「なんの星座」

「君に教えてもらったんだ。オリオンとかカシオペアとか白鳥とか…」

そうゆうと彼女は少し驚いたような表情になりました。

「あら、その星座たちならいないわよ。いたとしても、違う銀河よ。ここはあなたの宇宙だもの」

「やっぱり」

少年は少しがっかりしたように言いました。

彼女の夢は、ついでといった素振りで、寝転がる僕の頭もなでました。

「だから君が、ギリシャ人みたいに自分で星座を描いて、教えてよなんて言うものだから。今、試してみたんだよ」

「教えてよ」

「そうだな、僕の指先に一等明るい星が窓のように並んでいるだろう。ちょうど二つの四角を並べたような。あれがおとぎ話座だ」

「どうして」

「ページを開いた本の形のように見えるだろう。だからおとぎ話座。あとは向こうの方に線のような星が放射線状に三本並んでいるだろう。あれが黒猫座だ。ヒゲの部分を表しているのだね」

「どうして黒猫なの」

「背景は黒曜石みたいな夜なのだから、黒ねこ以外にふさわしくないだろう」

「ふうん。今、てきとうに言ったでしょう」

「うん」

羊は小川に口を伸ばして、こくこくと水を飲みました。水というよりさらさらとした水晶の粉でした。彼らは黙って宇宙を見上げていました。

「ねえ、僕は君になにをしてあげられるだろう。不安なんだ。回復するのかどうかもわからない。このままどんどん小さくなって消えてしまいそうな気がする」

「何をしてくれなくたってかまわないのよ。ただ、病室に遊びにきてくれるだけで、救われてるわ」

「でも、そんなものは一時しのぎで、僕が病室を出れば彼女はまた寂しさや苦しみややりきれない気持ちと向き合うんだろう。なんだかなんにも力になれていない。力になれるのかもわからない」

「彼女は星読みに選ばれたことをとても喜んでいたわ。自分は動くことが出来なくても、こうして夢の中でたくさんのお星さまやあなたとお話することができる。そのことでどんなに救われているか」

「それでは駄目なんだ。夢のなかで幸せであったって、現実の君も幸せにならなくては、本当の幸せとは決して呼べないと思うんだ。僕らは15歳で役目を終える。でも、人間としての本当の役割はきっとそこからはじまるんだ。その先の君が幸せにならなくては、こんな役割なんて仕方がないんだ」

「15歳まで、もたないのよ」

少年はハッとして彼女を見上げました。彼女は哀しそうに顔を伏せました。

「きっと、私には、わかるの。今の私の生き甲斐は、星読みの役目をきちんとまっとうすることにあるの。だから、私はベッドに縛り付けられている今の環境を、不幸せだなんて感じていないわ。だから…責めないで…」

9

15歳の誕生日まであと2日に迫った夢の草原では、少年が、後継者の少年に仕事を教えておりました。

「1時になったら北のゲートを開けて羊を出す。2時になったら北東のゲートを開ける。3時になったら東、時計回りの順番だね。そうして8時に北西のゲートを開いて羊を放りだしたら、その日の仕事はおしまいだよ」

いつか教えられた説明を、今度は自分が教えているのは不思議な気分でした。そして、自分もこれほど幼かったのかと驚くくらいに、隣にいる少年は、背格好も顔立ちもまるで子どもでした。後継者の少年はそれよりも気になるものがあるらしく、水車小屋の方を振り向きました。そこでは彼女が羊とたわむれながら手をふっていました。

「あの人は誰ですか」

「あれは星読みの夢だよ」

「ほしよみ」

「同じような役目を負った仲間だよ。きっと、君も新しい星読みといい友達になれると思うな」

「かわいい人ですね」

「そう、とても素敵な人だよ…」

一通りの説明と仕事を見せたあとで、後継者の少年は物珍しげに草原を散歩しはじめました。羊の色彩にも、眼が眩むような満点の星も、奈落の淵も、すべてに眼を丸くしています。その様子を、なんだか子どもを見守るような様子で、少年と彼女は小川の淵に並んでいました。

「どう、新しい子は」

「素直そうな、いい子だね。きっとここが気に入ると思うよ」

「ねえ、やはり草原を立ち去るというのは寂しいもの?」

「寂しいよ。自分の世界が半分なくなってしまう気分だ。半分どころじゃない。羊も、草原も、時計の音色も、羊たちの流れ星も、天の川のながれる音も、水車のカタカタ回る音も…僕の本当に大好きなものたちはみんなこっちの世界にあるような気がする。そのみんなとおわかれしなくてはならない。寂しくないわけがないよ」

「私は」

と彼女は訊ねました。

「そんなこと言わなくてもわかるだろう」

少年は怒ったようにいいました。もう、その瞳は泪の泉でいっぱいでした。

「寂しいどころの騒ぎじゃないよ。だって、もう、君しか残されていないじゃないか。君がいなくなってしまったら、もう、何も残らないじゃないか」

もう、現実世界の彼女はいないのでした。

彼女は3日前、15歳の誕生日を残り10日に控えて、ひとかけらの星になったのです。それを、静かに少年は見送りました。今草原にいる彼女は、彼女が残した最後の夢の残像なのでした。

彼女は強く握りしめられた彼の拳にそっと手を重ねました。このあたたかみややさしさまでが残像だなんて、少年にはとても信じられませんでした。泪は瞼の淵をつたって、雫となって草原に吸い込まれました。いくら泪を流しても、この泉は枯れ果てることなく、体中が耐えきれない寂しさでいっぱいなのです。

彼女を失い、夢の草原を失い、そして彼女の夢までを失おうとしている。自分の存在を占めていたほとんど全てが真空に吸い込まれて潰されていくようです。彼女はそっと少年を抱き寄せました。そのやわらかいものは心のささくれ立った氷河を溶かしていくのですが、その際の熱はすべて目頭のほうに集まって、もう泪は燃えるように熱いのでした。

「私ね、あなたに渡しておくものがあるの。これを」

彼女はポケットから小さな金色の鍵を取り出しました。少年の握りこぶしをひらいて、それをそっと握らせました。

「明日、時計台の鐘が9時を告げたら、あなたは水車小屋裏のゲートから出ていくの。そうしてあなた自身の”夢追いとしての夢”を星に帰すの。それが、最後の仕事。それで夢追いの役目は終わるわ」

「終わりたくないよ」

「我が侭言わないで。お願い」

「僕はこのまま君を閉じ込めてしまいたい。そうして彼を追い出して、ここにずっと住み着いてしまいたい。どうしてこの3年間自分の夢を犠牲にして夢追いの仕事に費やしていたのに、こんな辛い思いをしなければならないのだろう。あんまりだ」

「それは反対よ。ここで学んだもの、出逢えたものが多ければ多いからこそ、別れるのが辛いのよ。夢を与えたその代償を、十分すぎるほどにあなたの心は受け取っているハズよ。それはあなたもわかっているでしょう」

「君ともう会えなくなってしまうなんて考えたくない。僕は、君と一緒にいる時間が本当に楽しかったんだ。明日の晩を過ぎて、目覚めたら、もう君つながる全てのものが消えてしまうようで怖いんだ。僕は君と一緒にいたかった。15歳になんてなりたくない」

「馬鹿」と彼女は叱りつけました。少年の両頬を両手で包み込んで、諭すように言いました。

「ねえ、聞いて。この鍵を手に入れるためにね、どんなに私が頑張ったか知らないでしょう。私の命はね、もうずっと前に終わっていたの。手術を施したもうすぐにでも。この鍵は星読みが最後まで仕事をやり遂げた証としてお星さまから星読みの夢に渡されるものなの。だから私は、意識不明のそのあいだもずっと星を読み続けたわ。そうしてようやくお星さまから証をいただいたの。それがこの鍵なの。そうして安心して空にのぼっていったのよ。私は15歳になりたくても、なれなかった。あなたには15歳になる権利がある。これからずっと生きていける権利がある。それを簡単に放り出さないで。あなたの役目を果たすのよ。最後まで。私のためにも、お願い」

少年は泪をふきました。そうしてぐしゃぐしゃになりながらうなづきました。

「…そうだね。わかった。君のために、僕も自分の役目を果たすよ」

10

どんなに色鮮やかな風景も、いつしか夕焼けの霞がかかり、漆黒の幕に隠れて見えなくなってしまうように、彼女との思い出も、瞼の奥で次第に遠ざかっていく。

僕ははじめ、それが彼女に対する裏切りのような気がした。

寝るときにも、授業中も、帰りの電車のなかでも頑固な岩のように瞳を瞑って、彼女の輪郭や髪の色や声のトーンや仕草の細部を鮮明に描けるまで決して瞳を開けようとしなかったものだ。

延々と続くように思えた少年期をすぎて、いつしか青年と呼ばれるようになった。

僕は海のある故郷の町を離れて東京へ出た。そこようやく、彼女が遠ざかっていくのは裏切りではなく、それだけ僕が大人になったのだと思えるようになった。

正直に言うと、僕は最後の最後まで、彼女を裏切る決心でいた。

その頃は、世界の成り立ちや、自然の摂理や、定められた役目などよりもずっと、ずっと、そんなもの微塵も思いよぎらないほど、自分の初恋の方が大事だったのだ。

僕は彼女のことが好きだった。彼女をゲートの外に出して星に帰すつもりもなかったし、9時の鐘がなれば、僕はうまいこと言って後継者の彼を出し抜き、これも仕事のひとつだからなどと誤摩化して、自分が通り抜けるハズの南南西のゲートに、彼を放り出すつもりでいた。夢の草原と彼女とを自分のものにしようとしたのだ。

僕がそうできなかった理由が三つある。一つ目は、彼女がゲートを出る時間は、2時でも4時でも8時でもなく、僕と一緒の9時に同じゲートを通ると決められていたこと。結局、最後まで監視されることになったのだ。

二つ目は、9時に身代わりに放り出そうとした後継者は、8時を過ぎたらすっといなくなってしまったこと。その日はずっと9時に放り出すということしか頭になくて、僕自身もいつも8時を過ぎたら現実世界に呼び戻されていたことを、すっかり忘れていたのだ。それでもまだ、黄金の鍵を宇宙に放り投げて彼女を閉じ込めることも出来た。そして、三つ目の理由。

時計台の鐘は、もう少しで9時を向かえようとしていた。

はじめて迎えた8時以降の1時間は、なんの変化もなく過ぎていった。羊達はあいかわらず光を灯して草原をたゆたい、天の川はおだやかな音色でさらさらと流れ続けた。星は目も眩むほどにぎやかに瞬き、どこからか透き通った風が吹いて草原を揺らして通り抜けていった。いつもと同じ、奇妙に幻想的で牧歌的な夢の日常だった。僕は彼女と並んで南南西のゲートの前に立っていた。白樺の柵の淵の向こうには、あまりに広い宇宙の奈落が口を開けていた。

僕はいま鍵を放り投げるか、いつ投げるか、そればかりが気になってそわそわとしていた。きっとその挙動不審を、彼女は当然見抜いていたのだと思う。よし、と心を決めた瞬間の絶妙のタイミングで、彼女はこんなふうに言ったのだ。

「最後にもうひとつ、渡しておいてほしいものがあるって、お願いされていたの」

「なんだい」

「受け取ってくれる?」

彼女はそっと背伸びをして、僕にキスをした。やわらかな匂いが全身を包み込んだ。それは一瞬のことで、ただ僕の唇に、とてもやわらかくてやさしいものが触れたという感覚だけが夢のように残った。

「他にも色々と心残りがあったようなんだけどね、ファーストキスも済ませないで死んじゃうのも寂しいな、なんて言っていたから。それだけでも叶えてあげたいなと思ったの」

僕はもうそれですっかり舞いあがってしまったのだった。気がつくと、彼女に促されるがままに鍵を開けていて、ごおんごおんごおぉんと、いつもの鐘が鳴り響く音でハッと我に返った。

「この3年間、本当に楽しかったな。私、あなたが夢追いで本当によかった。あなたはこっちで、私は星で、これからも生きるのよ。しっかり生きるの。約束してね」

「約束、するよ」

そのとたん、なんの前触れもなく、いきなり彼女は僕の手を引いて、まるで遊園地に到着したようなそぶりで、勢いよくゲートの外へ飛び出したのだ。

そのときの、向日葵のような笑顔だけは、今でもしっかり心に焼き付いている。

結局僕は、彼女に想いも遂げられないまま、初志を貫徹する勇気も持ち合わせないまま、彼女にしてやられたのだった。

ファーストキスを済ませたかったから僕にしたのか、僕だからそれをしてくれたのか、今でもそれはわからない。ただ僕は、その朝目覚めたとき、寂しい気持ちと嬉しい気持ちとが津波のように押しやって、やっぱり涙は止まらなかったけど、同じくらいに笑顔もまた浮かんできてしまうのだった。まっさらに晴れた秋晴れのような気分だった。そのままどこまでも飛んでいけそうな気がした。

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