三題話「日本酒、辞典、松葉杖」

まだ花弁の瑞々しさをかすかに残しながらも、風化にさらされて、日暮れのようなかすかな黒ずみの気配をほのかに全身に匂わせた、「侘」という漢字は、そうゆう女性でした。

彼女はいまや、右手側のニンベンを”松葉杖“にしてもたれかかり、重力ですらも耐え難いといった様子で、身体を引き摺って歩いています。美しく華やかに咲き誇っていた彼女の面影はすっかり萎びて、ただ生活の慣性にまかせるままの、無気力な後ろ姿は寂しいものでした。

それを見かねて声をかけたのは、「酬」という老人でした。世間の流れに背を向けて幾年が過ぎたのか、豊かに伸びた白髭と、潔く剃髪した坊主頭、そしてすっかり色褪せた着物は、中国の仙人を彷彿とさせるたたずまいです。

「お若い方。そのように歩いては、せっかくの美しい形が台無しですぞ」

大陽の光をたくさん吸収したあたたかな赤土をつみかさねてつくった雄大な山のような、それは落ち着きのある低い声でした。彼女は、無言でかすかに首をふりました。そのとき、瞳のすきまに溜まった銀色の泪が、リンと物悲しい鈴の音を鳴らしたのです。

「もう、私はだれにも見られとうありません。私は長きに渡り耐え難い辱めを受けてまいりました。無限の視線に肉体を晒し続けて参りました。もう――私には露ほどの力も残されてはおりません」

「ふむ、これは重症だぞ」と芝居たっぷりに老人は呟きました。いまにも消えてしまいそうな彼女の儚さとは天と地の差です。

彼の口元からは菩薩の笑みが消えることはなく、その体躯はどっしりとかまえて、彼女の苦しみなどは千も承知といった様子で頷いております。

「お前さんの苦しみはなにかね」と酬は優しく訊ねました。

「私の言われようを、あなたもご存知でしょう。あるものはこう言っております。安らぎやうるおいがなくつらくて心細い状態だ。またあるものには、みすぼらしい、貧しくて気の毒な感じをあたえる、などと言われております。またあるものには、気力がなくなった、苦しく辛い、おもしろくない興ざめだなどと、散々な言われようです」

「ふむ。お前さんはこの世界のありかたそのものを憎んでいるようじゃな」

「なにより一番に辛いのは――そのようにしかもう私の肉体は見ていただけないということです。私がどのように振る舞っても、お洒落をして着飾っても、小春日和のような感情を抱いても、みな一様に、今言われたような散々な印象を、抱かずにはいられないということです。それが私の定というなら――あんまりにも酷い仕打ちですわ」

もはや彼女はその場に崩れ落ちて、泪にブラウスの袖を濡らすばかりです。さすがにこの醜態には、老人も俄にあわてた様子になりました。

「まあ、落ち着きなさい。これでも、飲みなさい」

そう言って酬は、右手に持っていた”日本酒“の酉(とっくり)を彼女に渡しました。彼女は宀の盃でそれを受けて、一気に飲み干しました。しかし酔いはいっそう泪を誘うのか、滝のように泪に暮れるばかりです。

「私も一緒に飲みましょうか。ああ、うまい酒だなあ」

 もはや州となったところに酉がだくだくと注がれるのですから、いつしか州は川となり、川は大海へと注ぎ込みます。あまりに酉がおいしかったこともあるでしょう。泪に暮れているとはいえ、女性と盃を交わすことの喜びもあったことでしょう。

彼は、酔、酌、酢、酩、醸、酎、醒、醐、といった仲間たちからも酉を取り上げてくると、またたくまにみな飲み干してしまったのでした。いつのまにかあたりは一面、とっぷりと濁る酒の海となりました。彼らの住んでいた世界は、酒の海のなかにぽつんと浮かんでいたのです。

ハッと彼女が気がついて顔をあげました。もうあたりは銀色の桃源郷です。そうして、彼女がこれまで縛り付けられていた鈍色の世界はひたひたになって、鈍色の表紙を筏にして水面をゆらゆあと漂っていたのです。表紙はもうふやけておりましたがかすかに国語辞典の文字が判別することができます。

「ふぉっふぉっふぉ。もうあんたの言う世界はみな溶解してなくなってしまったよ。もう、形にとらわれなくていいのだよ。幸せになりなさい」

もはや老人の姿はありませんでした。彼はこのとっぷりと濁る酒の海原となったのです。

彼女は惚けたように海原を眺めていました。もはや、彼女を辱める要因は、すべて海の底へ沈んでしまったのです。そして、いつしか身体の輪郭はあやふやになり、松葉杖のように寄りかかっていたニンベンは人となり、染色体のように分かれて一対の男女になりました。

そうして残された宅のなかで、筏が新しい世界にたどり着くその日まで、彼らは仲良く暮らしましたとさ。

 

 

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