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働き方も生き方も、選べるのだと気がついた日。

旅館の目の前には浜があり、そこには旅館が経営している海の家がある。

担当が違うので、あまり立ち寄る機会はないが、海の家担当のスタッフさんとは休憩室で一緒になることも多い。

その日は、海の家担当の糸島さんと、昼休憩の社食で話す機会があった。

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ひょろっとした風貌の海の家の糸島さん

「本当は4月頃から働きたかったんですけど、大震災の影響で、求人は夏頃にならないと出てこないって言われて。それで長崎におばあちゃんちがあるんでそこで3ヶ月暮らして、その後ここに来たんですよ」

糸島さんは、海の家のスタッフというイメージからはちょっとズレている。浜の制服である水色のポロシャツから覘く首筋や腕はひょろっとして、浅黒く、けれど健康的な印象ではなく、どちらかといえば部屋の中で過ごすのが好きそうな人である。年齢を聞くと30歳と言っていた。

出身は神奈川県の相模原だそうで、この職場ではじめて、僕は関東圏の人と話すことになった。千葉に住んでいるときは神奈川など別世界に感じていたのだが、九州のとある島に閉じ込められていると、千葉―神奈川間など些細な差異に思えるのが不思議だった。

「九州、というか、西っていいですよね。なんか人に気ぃ遣わなくていいじゃない。皆、そうゆうこと気にしてないでしょう。関東の空気って、こんなんじゃないでしょう」

「言われてみればそうかもしれないですね」

「俺、長崎の前は京都に長くいたんですけど、京都の田舎の方ね。住んでたところはゆるい坂道になってるんだけど、夕方とか、自転車は知らせながら大声で気持ち良さそうに歌ってる人、めっちゃいたからね。それがおもしろくってね、カラオケかってくらい。そんなん、関東だとあんまないじゃない」

たしかに、関東でも夕刻の心地よさに歌う同じ風景はあるのだろうけど、それを許容するやわらかな空気感というものは、あまりないような気がした。

プロの絵かきにはなれなくても、絵を描く仕事はできる。

食器を片づけたのが同刻だったので

「今から寮に戻りますか?」

と訊ねると、

「俺、これから浜に絵を描きに行くんですよ。出勤前と後は、絵を描いてるんで」

朝は5時か6時に起きて浜で絵を描いて、日が暮れてからも眠るまではずっと絵を描き続けているという。それが職場の人も知ることになり、海の家の壁に、絵を描かせてもらえることになったと話していた。

「俺ね、ワーホリでオーストラリアに行って、1年間、絵だけで食べてたことがあってね。絵、だけしかしないと決めて、それ以外は本当に、何もしなかったんだ」

「でも、それで向こうは生きていけた。芸術に対するハードルが低いだよね。道でふつうに絵を書いてるだけでも話しかけてくれたり、買ってくれる人がいたり、オーストラリアを縦断する間、一度もお金に困らなかったの。日本はそういうのないでしょう」

「だからお金を貯めて、もう一度どこかに出ようかなって。また絵を描くだけの生活に戻ろうかなって思ってるんだ。プロの絵かきにはなれなくても、そうした働き方はできるのだから」

僕が仕事を投げ出してしまった日

僕がここに来る1年半前の5月。

仕事が終わって自分の部屋に戻った僕は、急に、自殺衝動に駆られてパニックになり、2つ折の携帯を破壊し、遺書を書いて、部屋を飛び出した。

錯綜する頭でとにかく「遠くに行きたい」と思った僕は、東京まで出て、最初に目に入った夜行バスに飛び乗った。行き先は大阪。ふっと気が付くと僕は大阪の街を徘徊していて、これからどうすればいいかわからず途方に暮れた。

死のうと思ったが、どうやれば死ぬことができるのかわからなかった。自分という人間を殺すことには、とてつもないエネルギーが必要であり、それだけのエネルギーを振り絞ることができなかった。

そして仕事を投げ出してきてしまった申し訳なさ。どうしたらいいかわからず、難波、心斎橋、梅田と一日歩き続け、夜は、大阪駅前の路上で浮浪者にまぎれて寝た。

せっかくなら貯金を全部使い果たしてやろうと、銀行残高をすべて引き出した。20数万円。しかし、その20数万円で自分が一体なにをしたいのかわからなかった。そのことにまた打ちのめされた。

すがる思いで電話をかけた

どうしたらいいかわからず、すがりつくような思いで僕は、事務所の局長に電話をかけた。

「阪口くん!?今どこにいるの!?」

電話の向こうがざわついていた。後で知ったことだが、連絡もなしに無断欠勤したことに悪い予感を感じた局長が、僕の両親に電話、そこから一緒に暮らしている妹のもとに連絡が行き、僕の部屋にある遺書を見つけたらしかった。そのときにはもう身近な大学の友人にも連絡が回っていて、携帯を壊してしまった僕は気が付かなかったが、SNS経由で多くのメッセージが届いていたようだった。

僕はむせび泣きながら今の気持ちを伝えた。

どうしても今の職場に居続けることはできないこと。

自分の心に嘘をつき続けてまでこの生活を続けることはできないこと。

そんな身勝手な話を、局長は黙って聞いてくれた。

そのときに事務局長は、優しく諭すように電話口でこういった。

「あなたが抱えている問題は、実はどうにでもなることなんだよ」

もし本当に仕事が続けられないのであれば、辞めてしまってもいいのだということ。

あなたがいなくなっても、それは仕事なのだから、他の誰かが引き継いで、事業は進んでいくのだということ。

自分を押し潰してしまうようなら、きちんと辞めて逃げ出してもいいのだということ。

そんな言葉を、僕は泣きじゃくりながら聞いた。

仕事は、しなければならない。でもそのあり方は選べるのだと知る。

僕が縛られていた仕事への強制感や、逃れられないという束縛感は、自分の思い込みにすぎなかった。

自分の人生は自分のものであり、この手の中には「仕事を辞める」という選択肢も、当たり前のようにあるのだということに、はじめて気がついた瞬間だった。

仕事は、しなくてはならない。生きるために、食べていくために。

でも、どの場所でどんな仕事をするかという権利は自分が持っているのだ。境遇によって、能力によって、生活環境によって、その選択肢は限られるかもしれないけれど、放棄しない限り、その権利はこの手の中に残っている。

どんな仕事をすることも、どこに生きることも、その決定権は僕にあるのだ。

 

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